【福岡音楽事始】福岡洋楽コンサート黎明期のことなど

“海外のアーティストのライヴが日本各地でなかなか行われなくなってから久しいが、いわゆる「洋楽ロック」という事であれば、1965年のアニマルズ、翌66年のビーチ・ボーイズ辺りから福岡の洋楽コンサートの歴史が始まる。もう少し広い意味での洋楽括りだと、ペレス・プラード楽団なども60年代前半に来ているようで、両親から「新婚の頃に観た」という話を聞いた事がある。既に詳細を覚えてなかったので、いろいろと調査したのだが会場や年月日を特定出来なかった。当時日本でも「マンボNO.5」が大ヒットしていた。
僕が最初に観に行ったコンサートは、1976年12月17日のベイ・シティ・ローラーズである(初来日公演)。会場は九電記念体育館。70年代から福岡での洋楽(当時は「外タレ」なんて言ってた)コンサートはここで、九州に於ける「アット・ブドーカン」だった。今でも西鉄薬院駅から歩いて会場に着いた時に沢山の人が周りを囲んでいて凄い熱気だったのを覚えている。本番中も若い女の子たちの黄色い歓声が始終鳴り響き、それだけでもコンサート初体験の僕には相当刺激的だった。

2019年3月31日、九電記念体育館が55年の歴史に幕を閉じた。その最終日は一般に開放されたので足を運んだ。
久し振りに中に入ると、(当たり前の事だが)普通の大きな体育館だったという事を改めて実感した。そうだ、自分が座ったあたりに行ってみようと思い、「確かこの辺りで観たよな」と記憶を頼りに椅子に腰かけてステージに視線を向けてみた。すると幾つかの光景が蘇って来た。レスリーが大観衆に手を振りながら「S・A・T・U・R・D・A・Y – NIGHT!!」とシャウト。クイーンの時の、フレディが本国から持ち込んだ最新の照明の下で「ボヘミアン・ラプソディ」を熱唱。それは洋楽黄金期。それはとてもとても不思議な感覚だった。
70年代の洋楽コンサートを実体験として持った事は、僕の音楽人生にとって決定的な瞬間だった。今みたいに豪華ステージセットもまだ無い。緻密にプログラミングされた舞台装置や特殊効果も無い。素のステージ機材があるだけに近いのだが、そこにバンドとお客さんの熱量が合わさって、制御不能で巨大なエネルギーが生まれた。
今思うと、九電記念体育館にしても、あの頃よく使われていた福岡スポーツセンター(現在ソラリアプラザがある場所にあった)にしても、普通のコンサート会場ではなかった。だから、非現実なロック・コンサートでお客さんは弾けやすかったのではないか。固定の椅子席があって割とかしこまって観るのではなく、パイプ椅子を並べただけの、だだっ広い会場で行われるコンサートは予想不可能なマジックを生みやすい環境だったのかもしれない。

思い起こせばクイーンが初来日した1975年。福岡ではフレディ・マーキュリーが地元の放送局の取材に応じている。その時のスタッフが指定された某ホテルの高級ラウンジに行くと、何とフレディが一人でグランドピアノを弾いていたという。弾いていたその曲はジョン・レノンの「オー・マイ・ラヴ」だったそうだ。また別のスタッフが行った時もフレディはピアノの前に居て、即興でビートルズ・ナンバーを弾いてくれたらしい。当時から福岡はイカしたロック・シティだった事を証明するエピソードではないだろうか。また、同じくクイーンのエピソードとしては、新天町商店街で買い物をするブライアン・メイも多数目撃されている。メディアが集中する東京ではなく、地方都市だったから多少メンバーもリラックスしていたのだろう。
80年代に入り、洋楽コンサート会場は福岡サンパレスや国際センターに移っていく。またロック自体も70年代後半から巨大産業と化し大衆性を獲得するようになった。九電記念体育館での「熱狂のライヴ」は、やはりあの場所やあの時代ならでは産物だったのだろう。

記事提供者:元永 直人
福岡市在住。1976年ベイ・シティ・ローラーズの初来日公演を体験しライヴの虜に。以来通った洋邦のライヴは数知れず。また、放送局勤務時代に音楽番組やイベント(MUSIC CITY TENJIN、アジア太平洋フェスティバル、福岡県アジア若者文化交流事業等)に携わる。

写真提供:田中紹子さん