【福岡音楽事始】第2回〜福岡洋楽コンサート黎明期のことなど〜

~僕達の“サマー・オブ・ラヴ ’85”〜


「ROCK IN JAPAN ‘85」
出演:カルチャー・クラブ、ザ・スタイル・カウンシル、ゴー・ウエスト、アソシエイツ
日時:1985年8月4日(日)
場所:福岡国際センター

洋楽を聴き始めた1970年代半ば、特にアメリカとか英国とか意識している訳ではなかった。チープ・トリックもクイーンもキッスもレインボーも同列だった。やがて80年代が近づき、ニュー・ウェーヴと呼ばれるムーブメントが英国から登場した。その中でもポリスやプリテンダーズ、クラッシュなどにのめり込むようになり、だんだんと「自分はブリティッシュ・ロック派になろう」と思い出していた。そしてその頃、福岡のロック・シーンも英国の動きに呼応していた。モッズやロッカーズといった、60年代ブリティッシュ・ビートやパンクに影響を受けていたバンドが登場し、ストイックな8ビートを信条とするバンドが数多く生まれていった。

福岡が音楽で注目されるようになったのは、チューリップ、海援隊、甲斐バンドといったグループが次々とデビューした70年代前半が最初だろう。ビートルズを筆頭に、サーチャーズ、ジェリー&ザ・ペースメイカーズなどを次々と輩出した英国のリヴァプールになぞらえ、ある時期「福岡は日本のリヴァプール」という言われ方までしていた。そう考えると、昔から福岡は英国志向だったのかもしれない。

80年代に入り、ニュー・ウェーヴはニュー・ロマンティック、ネオ・アコースティック(略して「ネオアコ」)といった、よりカラフルでポップなサウンドに変化していくのだが、僕はますます英国産サウンドの魅力にハマっていた。なかでも一番好きだったザ・スタイル・カウンシルが、カルチャー・クラブ等と福岡に来るというので、友達誘ってチケットを買った。会場は福岡国際センター。ポール・ウェラーが颯爽とステージに登場した時、思わず立ち上がって歓声を上げたのを覚えている。レコードで聴きまくった曲が次々に演奏され、まさに夢のような時間だった。

同時期、僕は福岡のアマチュア・バンドも熱心に聴いていたし、毎週のようにライヴに通った。ロンドンとリンクするように、福岡でも多種多様なジャンルのバンドが活動していた。ボーイ・ジョージのようにメイクしたボーカリストもいたし、ネオアコブームでギターをセミアコに持ち替えたギタリストもいた。演奏会場もライヴ・ハウスのみならず、映画館(店屋町にあった冨士映劇をあるバンドマンが支配人にライヴが出来るように交渉した)とか大学のホールなどで、個性豊かで多種多様な音楽性を持ったバンドが集まってイベントをシリーズで行なっていた。なかには、当時プロのコンサート・ホールとして使われていた都久志会館(600名収容)を売り切ったバンドもいたくらいだ。

80年代に主に福岡のアマチュア・ミュージック・シーンを取り上げていた「BEATMAKS」という雑誌があった。(隔月発行/創刊1984年6月)先行して1979年には「BLUE-JUG」が発刊されており、80年代には福岡発の音楽誌が2誌もあった。
その「BEATMAKS」では毎号、読者投票による人気バンドのチャートが発表されていて、「WORLD」「JAPAN」そして「HAKATA」と、カテゴリー分けもされていた。 ちなみに‘85年発行の第8号の「WORLD」TOP5は、1.ROLLING STONES、2.SEX PISTOLS、3.DAVID BOWIE、4.CLASH、5.RAMONESとなっており、実に1位から4位までを英国勢が占めている。

毎年、夏の終わりになるとサブスクであの頃の曲をよく聴く。「Long Hot Summer」や「Do You Really Want To Hurt Me」を聴くと、どこか切なくて甘酸っぱい気分にさせてくれる。そしてあの頃、音楽について熱く語りあった友達の顔やライヴ会場の風景が浮かんで来る。1985年は僕達にとっての“サマー・オブ・ラヴ”だった。あの日、国際センターの最前列で踊っていた女の子は今どうしているのだろう。いつも玄関を通らずに裏の窓から入っていった友達の家はまだあるのだろうか。青春の証として「ROCK IN JAPAN ‘85」は今でも大切な思い出だ。

記事提供者:元永 直人
福岡市在住。1976年ベイ・シティ・ローラーズの初来日公演を体験しライヴの虜に。以来通った洋邦のライヴは数知れず。また、放送局勤務時代に音楽番組やイベント(MUSIC CITY TENJIN、アジア太平洋フェスティバル、福岡県アジア若者文化交流事業等)に携わる。