博多の夜を盗んだ男の話〜音楽都市 福岡の源流、ジャズピアニスト太田幸雄〜

 戦後、福岡の音楽文化は進駐軍の将校クラブや中洲のナイトラウンジなどから花開いた。その中心にいたのが「太田幸雄とハミングバード」であった。その後、90年代に渋谷系やクラブジャズシーンなどでその洗練された音楽性が再評価されたが、太田幸雄たちの活動は今も福岡のまちの音楽的ルーツとして脈々と息づいている。本稿は戦後福岡の音楽史と太田幸雄の足跡にスポットを当てる。

 太田幸雄は1925(大正14)年8月14日、日本統治時代の朝鮮・釜山府に誕生した。父は佐賀県唐津市の出身で、もともと税務署の職員だったが、知人の勧めで釜山に渡り、夫婦でスポーツ用品店を営んでいた。幼少期、病気がちで外に出ることの少なかった太田は、もっぱら読書に勤しみラジオやレコードを聴いて育った。そんな太田がピアノと出会ったのは小学1年生の頃である。音楽の先生から手ほどきを受けて、学芸会で伴奏を担当したのがきっかけだった。それから次第にクラシック音楽の魅力に取り付かれた太田は、ピアノを独学しつつ、青年期には野村光一や堀口敬三の批評を読み、あらゆる作曲家や演奏家を聴き漁っていた。ピアニスト人口が少なかった当時、太田は学生ながら歌手のステージや町の集会へ伴奏に呼ばれることも多く、気付けば人前での演奏にも慣れていた。

1944(昭和19)年、釜山公立第一商業学校を卒業した太田は、愛知県立工業専門学校(現・名古屋工業大学)に入学するため、愛知県名古屋市へ単身移住する。電気科に進学したものの戦時であり、軍需工場での勤労動員に励む日々を過ごした。敗戦後、音楽への情熱冷めやらぬ太田は、戦前からピアノの指導者として有名だった井口基成(※1)に師事し、クラシックの基礎を学んでいる。1946(昭和21)年、九州配電株式会社(現・九州電力)に就職した太田は、釜山から引き揚げていた両親と共に福岡県福岡市へと移り住んだ。
戦中、国内で禁止されていた西洋音楽の中でもジャズは、戦後再び大衆音楽として広がりを見せた。当時のジャズはビッグバンドを主体とするスウィングである。スウィングは踊るための音楽であり、演奏の場は主に進駐軍クラブと日本人向けのダンスホールだった。大学生や会社員などの若者が主催するダンスパーティーは娯楽の少なかった時代、格好の社交場であり、会社に勤めながら余暇でピアノを弾くことができた太田は、次第に演奏へ駆り出されるようになる。そしてルンバやタンゴ、ワルツなど頼まれるがまま演奏を続ける中で、自然とジャズを弾いていた。

一方で占領統治の時代、各地の米軍キャンプや焼け残った接収施設に作られた進駐軍クラブでも多くの日本人楽士が演奏にあたっていた。進駐軍クラブは基本的に日本人の立ち入りが禁止された、いわゆるオフリミットである。クラブに必要不可欠なのは、バンドやレコードなどの音楽だった。中でも爆発的に需要が増えたジャズバンドは、1947(昭和22)年に開始された格付け審査(※2)によって演奏の優劣を判定され、そのランクで出演料が決められていた。当時の福岡にはおよそ12組のジャズバンドがあり、楽士の数は150名を越えていた。特に〈大名町米空軍将校クラブ(※3)〉で演奏していた山田竜太郎バンドは、高い格付けで人気を博した。巨大な日本家屋を改築したこの将校クラブにはダンスフロアやバーが作られ、庭に茂る大銀杏の傍には野外ステージもあった。戦前は満州でトランペット奏者として鳴らした山田がバンドに引き抜いた楽士は、引揚げ者や陸海軍軍楽隊の復員者が多かった。バンドのピアニストには当時18歳の穐吉敏子(※4)が在籍しており、その日本人離れした腕前は楽士の間でも有名だった。しかし1948(昭和23)年8月、穐吉は更なる高みを目指すため上京してしまう。時期を同じくして大名将校クラブの演奏も「深見俊次とホット・ショット・スウィング・バンド(※5)」に引き継がれた。バンマスの深見を始め、山田のもとから移籍したメンバーを中心に結成されたホット・ショットは、ヴァイオリン4本のストリングスが特色で、スイートなタンゴやスウィングを得意とした。入団を期待していた穐吉の上京を受けて、深見が新たなピアニストとして白羽の矢を立てた人こそ、太田幸雄であった。当時難曲とされていた「バンブルビー・ブギ(※6)」を3日で覚え弾きこなした実力を買われて抜擢されたという。幼少期からピアノやクラシックに没頭していた太田にとっては容易いものだったに違いない。

また1946(昭和21)年1月、NHKの聴取者参加型番組としてラジオ放送を開始した『のど自慢素人音楽会(※7)』は、たちまち全国で人気を呼んだ。福岡放送局でも同年4月に初めて開催され、会場には200名近くの出演希望者と、溢れんばかりの聴衆が詰めかけた。のど自慢の伴奏は当初、ピアノとアコーディオンが主体であり、ジャズピアニストお決まりの仕事でもあった。太田も1948(昭和22)年頃から演奏に携わっており、以後30年以上に渡り九州全県の常連伴奏者としてお馴染みの顔となる。のど自慢では、民謡や端唄小唄からジャズ、流行歌まで、短い時間であらゆる譜面を弾く必要があり苦労したそうである。
こうして1949(昭和24)年、ホット・ショットのピアニストに就任した太田は、九州配電を退職して本格的にジャズピアニストの道へと進んだ。アルバイト的にこなすダンスパーティーの演奏とは異なり、高いレベルを求められたことが太田をジャズの魅力へと引き寄せたのであろう。将校クラブでは最新のレコードが備えられた大きなジューク・ボックスから、ジャズを浴びるほど聴くことができ、新譜のカタログを見せて貰っては聴きたいレコードを毎月10枚ほどアメリカから取り寄せた。1ドル360円の時代、輸入盤のレコードは非常に高価だったが、一般人給与の30倍とも言われる高給取りのジャズプレイヤーだからこそ為せる業であった。

この頃に太田が傾倒したのは当時最先端のクール・ジャズで、特にジョージ・シアリング(※8)のオクターブにブロックコードを入れて弾く爽快な演奏は、とても新鮮な響きだったという。クラシックは高名な専門家から奏法を学んだ太田であったが、ジャズはというと、板付基地の軍用放送局に勤務していた音楽に詳しいアナウンサーが心の師であった。このアナウンサーは月に1、2度、大名将校クラブへ演奏に来ており、太田は彼の弾くピアノからジャズ特有のタッチや音の使い方、左手の動きなどを習得し、クラシックとの違いを目の当たりにした。ホット・ショットで腕を磨いた太田は、スマートで洗練された演奏からジョニー・オオタの名で将校達から絶賛された。太田のジャズ熱は演奏だけにとどまらず、当時東京を起点として全国的に派生していたジャズ愛好団体「ホット・クラブ」福岡支部の立ち上げに参加している。団体主催で定期的な演奏会やレコード試聴会を行い、ジャズの名解説者としても知られた。

1953(昭和28)年1月、大名将校クラブで火災が発生し、調理室から上がった火の手は瞬く間に屋敷全体を包んだ。演奏中だったホット・ショットの面々も楽器と共に逃げ出すのが精一杯で、楽屋の私物や貴重な楽譜を取りに戻る暇は無かった。濡れた手ぬぐいを頭に被り外へ飛び出した太田の懐には、持ち出せないピアノの代わりに楽譜がしっかりと抱えられていた。当時、進駐軍に接収された施設は度々火災に見舞われており、将校宿舎だった博多ホテルや司令部が置かれた一方亭(※9)も同様に焼失している。舞台を失ったホット・ショットは、別の将校クラブを経て同年の内に芦屋基地(※10)の下士官クラブ「トップ・スリー」へと拠点を移して演奏を続けた。敗戦直後から続いた占領統治は1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効によって終結を迎えるものの、依然として朝鮮戦争の最中であり進駐軍の数は増加していた。華々しい将校クラブとは違う賑やかな夜を過ごす一方で、太田のもとにある依頼が舞い込むのであった。

〈脚注〉
※1:1908-1983 日本のピアニスト、教育家。 フランス留学後、東京音楽学校教授に着任。その後、斎藤秀雄らと桐朋学園を創立して短大初代学長、名誉学長を歴任。
※2:アーニー・パイル劇場(東京宝塚劇場)の支配人だったパーカーの発案で1947年から1952年にかけて実施された、日本人ジャズ楽団に対する格付け審査。終戦連絡中央事務局(外務省下部機関)の委託で発足された格付け審査委員会が全国主要都市でオーディションを行い、約二百のバンドが格付けされた。ランクはスペシャルABと普通のABCDの六クラスに分かれた(のち五クラス)。格付けされたバンドは、予め取り決められたクラブの出演料を小切手PD(物資調達要求書)で受け取り現金化できた。
※3:福岡県福岡市中央区大名2丁目付近に所在した。古くは江戸期に福岡藩士飯田覚兵衛の屋敷があり、1913年には中野徳次郎が別邸を建築。敗戦後に米空軍将校クラブとして接収され1953年1月、全焼した。跡地は組間作業所、福岡スターレーン、JT九州支社を経て現在はマンションが建つ。道路沿いの大銀杏が江戸期から残る。
※4:1929- ニューヨーク在住の日本人ジャズピアニスト、作曲家、バンドリーダー。 中国東北部遼陽出身。大連音楽学校でピアノを学び1946年に帰国。1947年よりジャズの演奏を開始し、1956年から1959年にかけてバークレー音楽院に留学。以降アメリカを拠点に活躍。1999年に日本人として初めて「国際ジャズ名誉の殿堂」入りを果たした。
※5:海軍軍楽隊出身のサックス奏者、深見俊次によって1948年に結成された。バンド名は深見の愛称「ホット・ショット(=やり手)」から取られた。程なく「ハッチャ・オーケストラ」へと改称。大名将校クラブ焼失後は、芦屋基地を経て1960年にキャバレー月世界の専属楽団となる。また深見が渡辺プロダクション九州支社長を務めた頃は、ザ・ピーナッツや布施明、森進一など同プロ所属の歌手が九州公演をする際の演奏も担当した。
※6:ロシアの作曲家、リムスキー・コルサコフのオペラ『サルタン皇帝』第3幕で使われる「熊蜂の飛行」を、サックス奏者のフレディ・マーチンが、ブギウギスタイルでスウィング・ジャズにアレンジして1946年に発表した楽曲。
※7:現在の『NHKのど自慢』。 1946年1月19日にラジオ番組『のど自慢素人音楽会』として、東京都千代田区内幸町のNHK東京放送会館から公開放送された。1947年には『のど自慢素人演芸会』と改称。1970年4月には現在の『NHKのど自慢』にタイトルが変更された。
※8: 1919-2011 イギリス生まれのジャズピアニスト。1947年にアメリカへ渡りクール・ジャズの第一人者として活動した。またスタンダードナンバー「バードランドの子守唄」「九月の雨」などを作曲。1996年に大英帝国勲章受勲。2007年にナイト受勲。
※9:明治期に東公園(福岡市東区)発展のため誘致された高級料亭。戦中は西部軍経理部宿舎として利用され、戦後は進駐軍の司令部およびPX(売店)が設置された。1946年4月に火災が発生し建物の一部を焼失。1957年に返還されるも取り壊され、跡地には福岡市民体育館が建設された。
※10:福岡県遠賀郡芦屋町芦屋および遠賀郡岡垣町糠塚に所在。1942年12月、帝国陸軍航空部隊の芦屋陸軍飛行場として設置。1945年10月、終戦により米軍が接収。朝鮮戦争時は爆撃機や輸送機の基地として使用された。現在は航空自衛隊の基地。

〈参考文献〉
・井上精三「NHK福岡放送局史」(1962 NHK福岡放送局)
・内田晃一「日本のジャズ史=戦前・戦後」(1976 スイング・ジャーナル社)
・西日本新聞社福岡県百科事典刊行本部「福岡県百科事典 上巻」(1982 西日本新聞)
・福元満治「戦後誌 光と影の記憶」(1995 朝日新聞西部本社)
・穐好敏子「ジャズと生きる」(1996 岩波書店)
・ガジェット4「モンド・ミュージック2」(1999 アスペクト)
・東谷護「進駐軍クラブから歌謡曲へ 戦後日本ポピュラー音楽の黎明期」(2005みすず書房)
・青木深「めぐりあうものたちの群像 戦後日本の米軍基地と音楽 1945-1958」(2013 大月書店)
・田代俊一郎「麗しの月世界 福岡キャバレー文化誌」(2020 INSIDEOUT)

記事提供者 冨田息吹(とみじい)
福岡市在住の学生。「ジャズる心で聴く和モノ」を信条にレコードを愛し続けてはや十年。高校生の頃から選曲活動を開始し、戦後福岡の音楽史研究を行っている。近況としてはRKBラジオ「ガメニチューンズ」に不定期出演するほか、親不孝通りのクラブ「キースフラック」にて毎月第三水曜夜にラウンジイベント「GAFAS」を共同主催している。