【福岡音楽事始】:福岡民謡民舞考 民謡はいかに日本の流行歌の中で取り上げられてきたか(後編)

日本が高度経済成長時代に差し掛かり、生活が豊かになってくると人々はレジャーや趣味などに時間を割く余裕ができるようになり、盛り場にはキャバレーやダンスホールといった大人の社交場ができて活況を呈し始めます。戦時中、海外の音楽は敵性音楽として聴くことが禁止されていましたが、戦後はジャズやラテンなど、様々な音楽が海外からどんどん日本に入ってきました。

「マンボ」というキューバ由来のラテンのリズムが世界的にブームとなり、日本でも美空ひばり「お祭りマンボ」、江利チエミ「パパはマンボがお好き」、雪村いづみ「マンボ・イタリアーノ」などといった、「マンボ」のリズムを取り入れたヒット曲が次々と生まれます。この「マンボ」は日本初の外来のリズムだと言われており、1955年(昭和31年)、「マンボNo.5」の世界的大ヒットで知られるペレス・プラード楽団の来日で、日本のマンボブームはピークを迎えることになります。
その頃、マンボダンスの講習会や、ダンスの腕を競い合うコンテストも全国で盛んに行われました。東京では神宮球場などで行われたと記録に残っていますが、太平洋戦争末期に学徒動員が行われ、雨の神宮外苑で悲壮な覚悟で学生を戦争に送り出したあの場所で、十数年後はみんなで陽気にマンボを踊っていたという、日本人の変わり身の早さ、ある意味その逞しさには驚かされます。腿の部分が広がった、いわゆるマンボズボンをはいた「太陽族」といった若者の集団なども出てきて、一種の文化・風俗となっていきました。

マンボブームの後も、「チャチャ」、「カリプソ」、「ツイスト」、「タムレ」など、様々なリズムを取り入れた踊曲が世界中で流行します。「ジャズ」が元々はダンスミュージックであったように、この「踊れる」という事は大衆音楽にとってかなり重要な要素なのですが、「踊れる音楽」というと日本各地に「民謡」というものがあるではないかということを気づいた人達がいました。その頃日本を席巻していたラテン音楽と結びついて、様々な民謡が流行りのダンスミュージックに生まれ変わっていったのです。当時、日本でたいへん人気のあったラテンバンド、見砂直照と東京キューバンボーイズや有馬徹とノーチェ・クバーナらが日本民謡とラテンリズムの融合を試みたり、白木秀雄などジャズ側からのアプローチも数多くありました。

民謡が当時これほどフィーチャーされたのは、やはり外来の音楽に対して日本人としてのアイデンティティをどう捉えるのかという問題意識や、急激な国際化に伴う、海外に向けた日本らしさの表現の発露という観点からだと思われます。

1963年6月、見事に全米ヒットチャート1位に輝いた「上を向いて歩こう」(SUKIYAKI)の坂本九は、アメリカ進出第3弾として「TANKOBUSHI」をリリースしています。(日本ではシングル「オールナイトで踊れたら」のB面で「九ちゃんの炭坑節」として発表)オリエンタルなエキゾチズム溢れる踊れるリズムというのが「炭坑節」の選曲理由としてあったと思われますが、リズムの面白さはもちろんのこと、テネシー・アーニー・フォードの「16トンズ」(1955年)など、アメリカでも炭鉱での労働にちなんだヒット曲が多数見受けられ、理解されやすかったのも理由の一つだと考えられます。

実はいまでも世界中で「炭坑節」が歌われています。例えばイスラエル出身のグループで、アラブの伝統音楽であるマカム音階法とアフリカのリズムにジャズファンクを合わせたサウンドが特徴のQuarter to Africaは2018年に「TANKOBUSHI」を発表。日本の民謡をクンビアやスカやブーガルーなどのラテン音楽アレンジで歌う日本のグループである民謡クルセイダーズは、海外のライブなどで「炭坑節」を演奏し、世界中で称賛を浴びています。

労働のつらさを歌にしてみんなで共有し、それを発散する。洋の東西を問わず、音楽はいつの世も大衆とともにあります。

写真
「The Tokyo Cuban Boys ‎– More Echoes Of Japan」
提供:常盤響さん

記事提供者:松尾伸也
ミュージックシティ天神運営委員会委員長
福岡音楽都市協議会 企画運営委員