【福岡レジェンドロング・インタビュー・シリーズ】街と音楽の記憶 第2回 鮎川誠(中編)
福岡を音楽都市たらしめた先人達の証言を集め検証していくプログラム。
「福岡レジェンド ロングインタビュー・シリーズ“街と音楽の記憶”」
第2回目は「めんたいロック」と呼ばれる博多のロック・シーンを築いた一人、現役ロックレジェンド鮎川誠氏〜中編〜
このインタビューは、昨年(2022年)の9月30日に行いました。今思えばその時既に鮎川さんは余命宣告を受けていたことになりますが、当然我々には知らされておらず、いつも通りの元気な(そう振る舞っていらっしゃる)鮎川さんが目の前にいました。改めて振り返ってみると、インタビューに入る直前に鮎川さんが「ちょうど昔の話をしたいと思っとったんよ」と仰っていて、その時は何気に受け止めていましたが、”残しておきたい”という強い気持ちがあったかと思うと、このインタビューが鮎川さんなりの遺言のように思えて込み上げてくるものがあります。鮎川さんが遺してくれた貴重なWords of Rockが、少しでも多くの皆様に届きますように!(深町健二郎)
仲間とブルースに憑りつかれて
前回ものすごく濃い話をいっぱいお伺いできて、福岡時代の鮎川さんのすごく貴重な証言というか…ありがとうございました。
あの時代の福岡をちょっとでも空想してもらえたらね。
財津さんの番組がNHKでこの間あって、すごい良かったんよ。
安部君(チューリップ初期のギタリスト安部俊幸氏)も亡くなったもんね。それを思い出したり、個人的にギタリストの安部とは交流がちょっとあったけど、財津さんは1個年上やったし。
財津さんにお話をお伺いしたときに、ちょっと自虐的に「自分はバントの壊し屋と言われてた」って仰ってました。メンバーをいろんなバンドから集めないとできない時代じゃないですか。だから海援隊からメンバーを引き抜いてきたりとか、そういうので結構悪者扱いされてたみたいなことを仰ってましたけど。
そうやね。中洲はもう横のつながりがすごかったからね。バンドは困らんやったよ。ベースは誰とか。
でもうまい人が限られてくるじゃないですか。そういう意味での取り合いみたいなのはあったんですか?
たぶんチューリップとか、のちの甲斐バンドやら、フォーク系はなかなかそういうグループで動くという発想がない、基本的に。ビートルズは置いておいて、中洲のバンドは個人技が集まらんとなんもできん。
でも鮎川さんも、たぶんその時代って結構いろいろ引かれたんじゃないですか?こっち側に来てくれんかって。
いやいや、全然なかった。
変な話、鮎川さんみたいにかっこよくギター弾く人ってあんまりおらんと思うんですよね。そういった意味でもロックバンドからしたらみんな欲しがるんやないかなと。
いや、それと、俺は自分でも言いよるけど、「赤と黒」(中洲にあったダンスホール)に出入りしたとかね、もう大学入って夏が終わったときに、もうアタックは沖縄行ったし、冬に帰ってきて、もう1回次の年にアタックがまた「赤と黒」に出たけど、篠山さん(サンハウスのギタリスト篠山哲雄氏)がその時点で脱退して、俺はヘルプみたいな、アタックの残骸の、ちょっとしただけやったし。そんなに自分がワーワー言いよるほどには長くおらんやった。ただ、中洲を肩で風切るっちゅう喜びがあった。自分のプレイする場所まで一目散に来る、自分に酔いしれとった。ものすごい嬉しかったもん、本当にバンドのアンプが置いてあって、本当に生の音が出る、そういう場所なんてなかったから。
なんならそれでギャラも貰えてみたいな。
うんうん。みんなに聴いてもらえるっていう部分がほとんどの人は、バンドは音を出して当たり前みたいな見え方で、そんなに音楽に詳しいような人が集まるわけではなかった。ダンスホールやけ、踊ったり、ジルバかけちゃってんとか、ツイストかけちゃってんとか。かけちゃってんというのがね、演奏してじゃなくて。
かけちゃってんという、ちょっとDJ的な言い方ですよね。
やけん、そんぐらいのもんやったんよね。そやけん、アタックが噂になったり、キース(柴山さんがやっていたバンド)がどうだとか言うても、それはものすごいコアなマニアが少しおったぐらいで。使い捨ての、なんか音を出しておくバンドぐらいの扱いやった。
いわゆる箱バン(※1)的な扱いみたいな。でもそれから考えたら、サンハウスはちょっとまた次元が違う?
サンハウスをやり始めたのは時がそれから2年ぐらい経ったし、まず「ウッドストック」(※2)をみんな観たし、映画で。もうあれを観たことによってさ、納得したというか、ダンスホールがどんどんなくなっていくことも、それからロックがどこに向かいよるかも、「ウッドストック」の映画を見て、みんな夢見て、そういう時代。新しいニューロックとか、アートロックとかっていうような言葉も一緒に出てきたりして、時代がちょっと変わって、流行り歌を歌って、ダンスホールで演奏するとかいうのはもう、あっという間に時代遅れになって。
「ウッドストック」というのはアメリカだけじゃなくて、鮎川さんも含め、日本もそうだし、世界に対する影響がかなり大きかったんですね。
ものすごい。フー(The Who)を見たかとか、スライ(Sly&The Familly Stone)を見たかとかさ。
もうなんかどのシーンを見ても、キャンドヒート(Canned Heat)もそうやし、見られんような、バンドを見るだけでもすごかったし、40万人という人間の数ももう圧倒された、みんなが歩いて向かう、どのシーンも、そういうのが今の世界のロックかっていう。ジミヘンもトリをとるし。もうジミヘンの音は、それまでのソロモン・バークだ、フォー・トップスだ、ウィルソン・ピケットだ、ジェームス・ブラウンだとか言いよるものと全然違う、クリームに、ジミヘン。ちょっと遅れてツェッペリン、ああいうエレキで古いブルースをネタに、自分らの創作をするというような、その音楽の作り方の方向性なんかも、やっぱりあの時代のバンドは、もうダンスホールをしとった時からたった3年ぐらいやけど、嗜好も変わったし、「ニューミュージック・マガジン」(※3)というのが60年代の終わりに東京で出てきて…69年かな。
ほぼウッドストックと同じ時代に。
うんうん。それを見て読んで、情報を補って、偏っとったと今になっては思うけど、レオン・ラッセルのグループがすごいレコード作りよるとか、ウッドストックで、ジョー・コッカーがレオン・ラッセルと一緒にアメリカツアーしてとか、そういう新しいシーンが開けてくるのと、日本語で書いてある活字でロックが読めるっちゅう、情報としても正確やけんね、活字があるとね。耳で聴いたりするのは全然あれやけど。
そういうのもだいぶ生まれてきている時代だったんですね。でもNHKのドラマ「You May Dream」(※4)にも出て来ましたけど、かなり早い段階でぱわぁはうす(※5)でブルース講座「ブルースに取り憑かれて」も始めてるじゃないですか。それってもうサンハウスが始まってたときでしたっけ?
もう始まっとる。始まった年の夏に、俺、偵察行ってくるけんって行ったんよ。
ぱわぁはうすに?
うん。それからすぐメンバーに「行こう行こう」ってみんなで行きだして、すぐ田原君、松本康(実はこのインタビューを行った2日前にジュークレコードの松本康さんはお亡くなりになっていたのだが、まだ我々には知らされていなかった。)、2人が昼夜交代でしよって、仲良くなって。でもわりとすぐに、練習場所に使っていいよみたいに。12時から営業やったけ、朝の8時からカギを預かって、12時にスタッフが来るまでは練習していいっち言われてありがたいって。みんな8時に交代でカギ当番、メンバーがみんなカギを、「明日は奈良(サンハウスのベーシスト奈良敏博氏)ね」とか言うて、ほとんど毎日集まった。
なんかライブハウスの走りみたいな感じですか?それまでのダンスホールとかとは全然違うわけじゃないですか。
もう全然違う。ロック喫茶。
ロック喫茶なんですね、そもそもね。だから本当は生演奏でやるようなところではなかったんですよね?
なかった。それで、あれは72年ぐらいまでかな。
あそこに結集しよったんよ、自分らが好きな、ジョン・リー・フッカーやら持っていってかけてもろうたり、自分の家では欲求不満だった音量が爆音で聴けるのと、誰か見知らん奴もおるっちゅう、えらいスリリングなんよ。こいつはどげなふうに聴きよるやろかとかさ。
それもある意味ライブですよね。
あれも高揚するのね。そういう感じで、グループがやっぱり、ツェッペリンやら、クラプトンやら、まだ言うならローリング・ストーンズやらがお手本にしたマディ・ウォーターズとか、ジョン・リー・フッカーとか、ハウリング・ウルフの曲とかが、かたや輸入盤で聴けるようになってきて、それでぱわぁはうすにブルースも集まりだして、それで田原君の提案で、レコードコンサートしようかって。
それで、レコードコンサート、(松本)康ちゃんの言葉ではあるんだけど、俺が明善(高校)で新聞部やったから、ガリ版でもいいけんパンフレット作ったらどうかって、俺がどうも提案したみたいなんだけど、「ガリ版刷りなら任しときっ」て松本康が。
松本さん、得意ですからね。
子供たちの塾をしよって、で教材をいつも作りよったから、みんなでガリ版切って、曲名書いて、名前を上げるのが使命みたいなところもあったんよ。それはもう、本を読めば書いてあるけどね。
でもそのころ情報がそんなにない時代ですよね。
もうバディ・ガイ、ジュニア・ウェルズ、リトル・ウォルター、口では言えるけど、そんなにボンと曲はさ、今みたいにSpotifyやらない時代やから、そんなに検索もできんけど、みんなが持ちよったやつで、これ本当コンサートしてみんなで聴き合おうやってなって、1か月に1回で始めて、毎月やったんよ。それで74年もサンハウスはもう郡山の「ワンステップフェス」(※6)も出るし、それは夏やけど、春に野音に出て。どうもそのころから、遅ればせながら日本のロックのレコードが、いっぱいキャロルやら、ミカバンドから始まって、いろんなバンドが出て、一番終わりぐらいにサンハウスにテイチクから声がかかって、それで東京でレコーディングやデモテープ録るとか、野音に出るとか、作戦を練って、それでシングル盤で「地獄へドライブ」を夢本舗で出して。
ある意味自主制作な形で。
自主制作を、イニシャルナンバーを高く取るためにという、ジョニー野村の入れ知恵で、そういうなんか、俺たちはなんもわからんけど、「へー」とか言うて、そのために東京行って録音したりとかになって、もうちょっとガリ版刷りと、やっぱり準備が結構かかるんよ。手間暇がね。それで、なんと俺、全部解説しよった。パンフレットも配るけど、4、5曲まとめて聴きましょうって、次はハウリン・ウルフの歴代のギタリストだけを選んだから、ヒューバート・サムリンやら、なんやったっけ、ジョディ・ウイリアムスだったかな、いろいろ、ウィリー・ウィリアムスやない、もうごちゃごちゃになっとるけど。
ちゃんと系譜じゃないけど流れを。
系譜やら、カテゴリーっぽいものとかにコーナーを分けたりして。
シカゴ・ブルースとか、エリアによってだとか。
もう毎回。最初、マディ・ウォーターズとチェスっちゅうのが1回目にして、2回目はマディだけじゃなくて、B・B・キングも入れないとダメとか、B・B・キングはあんまりみんな好かんやったんよ。
なんででしょうね、メジャー過ぎたんですかね。
いや、アーシーじゃない。デルタ・ブルースのあれを求めるっていうのはローリング・ストーンズが、フレッド・マクダウェルの「You Got to Move」を、『スティッキー・フィンガーズ』の時に初めて取り上げたのは、バンドにとっては結構ショックやったな。アルバム『Let It Breed』で「Love In Vain」、ロバート・ジョンソンの曲を取り上げたときには、まだ作曲家を見たらウッディ・ペインって書いてあって、「誰やウッディ・ペインっちゃ?」とか、まだロバート・ジョンソンって書いてなかった。でも「Love in Vain」もすでに有名な曲やったから、これロバート・ジョンソンの曲だよねみたいな。でもストーンズもコード進行をちょっとアレンジして変えたり、いろいろ手の加え方がすごかったけど、『スティッキー・フィンガーズ』の「you Gotta Move~♪ドン」ちゅうのは、もう完全なデルタ、マディに直結する、チャーリー・パットンからサンハウス、マディが来てっちゅうようなデルタの系譜が、なんかみんな、柴山さんも、篠山さんもみんな好きやったね。
ある種、ブルースで一番ハードコアな部分。
B・B・キングはなんかもったいつけて声が朗々と響くし、ちょっと都会的よね。
確かに言われてみたら、洗練されて都会的ですよね。
そいけん、求めとったのはなんかそういう、本当に音楽をちゃんと聴いてるのか、自分らの思い焦がれた、勝手なブルース道ちゅうのがやっぱ過半数あってね。結構偏った好みやった。
でもすごいセンスが、その段階でかっこいいというか、そこをちゃんと、本物はこれだ!みたいなのを、いってるのがすごいな。
でもね、19回やって、もうどの回も本当すごい。上田恭一郎という、もともとは八幡の「いのちのたび博物館」の館長さんしとったけど、その上田君がやっぱりライターメンバーの1人で、それで今頃になってパソコンでCDに焼き直しよる。なんか労作を結構頑張って今もしよる。そんなんで送ってきて聴くと、ちょっとびっくりする。ノンコマーシャルや。言うちゃないんやけど、只今売り出し中みたいなのに中央のライターはプロモーションも兼ねて忖度するやん。そんななんもわからんでしよるけ、おいしいところも全部手掴みでしとって。すごい発想やし、そのときおもしろいと思った記憶を選んどるけ、逆に素晴らしい記録になっとる。
何回くらいやったんですか?
19回。19回目でもうやめようという、19回目の神経衰弱(笑)で、ストーンズが好きやったけ。
それでちゃんとオトして(笑)。
うん。ここでちょっと俺たちも忙しくなって、それが74年の途中やったと思うね。それまで基本毎月1回しよって。ガリ版刷って、シーナもその頃はまだエッコちゃん(悦子)やけど、エッコやら、ぱわぁはうすもいろんな人が、ガリ版を折り畳んで、ホッチキスで止めて、50部ぐらい作って、お客さんも10人とか20人しか来んから、必然的に余るけど、みんな余ったのもずっと回が重なって、みんな大体とっとったけど。
松本さんとかは今でもたぶん。
うん。康ちゃんはそれを1回ブースカ(元アンジーのベース中谷信行氏)と一緒にスキャンして、まるまる今もアーカイブであると思う。
それも今となってはすごく貴重な資料ですよね。松本さんも結構19にこだわってますもんね。ジュークレコードも19という、ラジオを一緒にしているときも、19曲紹介するという(笑)。
そうやね、しよったもんね。
そうなんですよ。鮎川さんもシーナさんとゲストでお越しいただいた時もあったけど。なるほどね。それはみんなより広まっていくというか、今で言うシェアじゃないけど、ファンがまた増えていきますよね、鮎川さんと同じぐらいのレベルまでブルースに詳しくなっていくだろうし、お客さんも。
ただ、僕たち、全員の実感ではあったけど、もう相変わらずのメンバーになってしまって、なかなか浸透するのは大変だっちゅうのが、博多だけはみんなブルースは相当詳しいようにはなってなかった。若手のバンドがダメや、全然。
食いついて来ないんですか?
おいしいところだけ取りに来る(笑)。
ハハハ。
福岡にこだわったサンハウス、そしてシーナとの出会い
今、ちょっと話、チラッと出ましたけど、でもすでにそこにシーナさんとかも入ってくるわけじゃないですか。シーナさんとの出会いみたいな話ももう1回改めてお伺いしても良いですか?そのへんの時代のお友達というか。
シーナは、俺たちはヤングキラーに5月から、71年の…
それはサンハウスですよね。
うんサンハウスで、最初はハニービーという博多駅前で2か月やって、柴山さんが、昔、慕情に出よったという関係で、マネージャーも知っとって、仕事を柴山さんがヤングキラーで見つけてきて、5、6、7、8、9、10ぐらいまでしたかな。それで、8月に箱崎の九大祭に出て、ちょうどバンドもまた新しいファンがものすごい…
多かったんですか?すでに。
もう埋まっとうんよ。夜中の2時か3時やったけど、真っ暗闇の中に向こうまでおって。
明らかにサンハウスを見に来てるお客さんたち?
サンハウスって知らんけど、でもやっぱりすごい良かったと思う。お稽古ごとの音じゃない、俺たちは本気でしよったけん。「I’m a Man」と「Help Me」の歌詞を乗せた「Boogie Chillun」とかね。それと、エルモア・ジェームスの曲「Sun is Shining」かな。
まだオリジナルでやる前ですよね?
うんうん、ブルースばっか。それをやって4、5日経ったころに、青い服を着たお客が来て、全然今までのお客と違う感じで、俺は「あれ。なんかカッコいい人が入ってきたぞ」と、いつもの常連風じゃなかったけん、そんで右側に座って聞きよるけん、気になっとったらそれが俺が見た最初のシーナやった。それで、浦田(サンハウスの初代ドラマー浦田賢一氏)に言わせればやけど、俺は忘れとったんだけど、シーナが「ギターの人と話ができんやろうか」っち浦田に言うたみたいで、「女の人が待っとうよ、ここに」とか言うて、大きい声で。川端やけん響くんや(笑)。楽屋からガラッて開けたら川端通りが見える、「なんね?」とか言うたら、「女の人がおるよ」とか言うて、さっきのかなとか思ったら、本当にさっきの人が「なんね?」とか言うて、「こんにちは」みたいな感じで、「お友達になりましょう」とか、「あーよかよ」と返して。
積極的ですね、シーナさん。
もう大人と思いよったら17歳やった(笑)。
高校生ですよね。
うん。それで、そのとき俺の明善時代の友人で、自衛隊に入った友達もたまたま来とって、夜でも開いとるコーヒーショップがあったけ、3人でコーヒーショップに行って、いろいろ話して、もう夜も更けて、「帰らんでいいと?」とか言うて、身の上を聞いたら、夏休みで東京に遊びに、音楽を聴きに行って、それで東京では水かけられたと、グループサウンズ聴きに行ったら。金輪際ああいう店のロックは聴かんというて、えらい怒っとったい。音楽聴きに来たのに、バーテンに水かけられて、早よ行ったけね。まだ「ここ並ぶんじゃねえ」みたいに。水やらかけられて、怒って。それで今度は琵琶湖であった大きなフェスを見て、満足できんやったっちゅうて話しよった。京都でいろんなロックを生で聴きに行ったけど、全然聴けんで、北九州で降りろうと思ったけど、ちょっと乗り過ごして博多まで来て、ぶらっと入ったら、ものすごい、ここどこやろか?ちゅうぐらい良かったっちゅうて、お世辞もあろうけど、「本当ね?」っちなって、「わかっとるやん」ってなって(笑)。
「今日どうすると?」っちゅうたら、時間潰して帰るっちゅうて、「まだ明け方まであるけ、俺んがたに来るね」っちゅうて、春吉におばさんの家、借りとったんや、2階に間借りして。で友達と、シーナと俺とでワーっち行って。それで、そしたら「私、春吉住もうかね」とか、朝起きたら、「あ、いいやん」って。それで、すぐ家からこう歩いたら、マルイチアパートというアパートがあって。中洲のバンドマンがいっぱい住んどるんよ。古い木造に増築増築を重ねて3階建てぐらいの、「千と千尋の~」古い家をなんか中洲のごちゃごちゃしとるところに入れ込んだような、階段があちこちあってさ、まだ上があるとかいうような。みんな四畳半とか、そこあたりがパッと、そこ空いとうかもしらんけといって連れていったら、1,800円の部屋があるとか言うて、「いいやん」って。それで借りろ、借りろ。そしたら階段の下の三角の部分を改造した、無理矢理作った部屋やって、でも1,800円やった。
安いですよね。当時でも。
それでそこを借りて、それでシーナが亡くなるちょっと前やったけど、「私は1人で借りろうと思ったらあんたまでついてきた」って(笑)。「あ、そうやったん?」って、何十年も経ってから。
今頃わかったみたいな。
颯爽としてステレオやら持ってくるけ、「おかしかった」とか言うけん。
でも、シーナさん、高校生じゃないですか、その当時。それで1人で部屋を借りようというのもすごいですよね。
肝が太いよね。その前の年も行っとる、ロック聴きに。それでロックを聴いて、オーティス・レディングやら、ツェッペリンやら、ヘッドホンを壊すのが名人やった、またエッコがヘッドホン飛ばしよったとか言うて。
そのぐらいでかい音で?
うん。でかい音で聴きよる。そいけん、音楽の話でもすごい嬉しくて、俺はもう夢に見たロックな彼女というかさ、ポール・マッカートニーやら見たら、ジェーン・アッシャーが写っとったり、アニタとキースがおったり。ブライアンとアニタがおったりとか。かっこいいとか思いよったけど、なんかもう夢みたいでさ。
そこを共有できる人、なかなかいないでしょうね、男でもなかなかいないぐらいの時代。
そうね。それでちょうどあのころ出たのが、キンクスの『Everybody’s In Showbiz(この世はすべてショービジネス)』、ジョンとヨーコの『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』がちょうど出た、それと『スティッキー・フィンガーズ』が出たすぐあと。そのぐらいの頃やった、音楽もよう一緒に聴いて。それで9月が来てヤングキラーが、たぶん10月ぐらいまで箱バンドでやって。で、ヤングキラーもそれで店が終わったんよね。そしたらエンタープライズ(※7)が佐世保に来るけ、臨時で1か月半スカウトが来て、俺たちはちょっと高額のギャラを提示されて、行こう行こうっちなって。
佐世保のなにかそういうお店。
佐世保の外人バーの中の「ジグザグ」っちゅうお店。マリファナの巻いてある紙に「ジグザグ」っていうメーカーがある、あれをそのまま看板にしとるけ、みんな「ここはいいんか?」っちいう感じでさ。兵隊さんがいっぱい来よったんよね。全然ダメなんだけどさ。そのぐらいの無法地帯っぽかった、佐世保は。
それもロック喫茶というか、ライブハウス?
それはもう、完璧な音響を備えたライブハウス。
そうなんですね。福岡より早いぐらいなんですね。
お金もかけるし、儲かりよったんやろうね、やっぱ。外人ばっかりでね、日本人来んのよ。お客さんはアーミーがほとんどで。それで、音響もいい音で得意のブルースをやるんだけど、さっぱり受けんで、これは困ったねーっちなって。そういう古い、いわゆる自分らの奴隷時代の遺物みたいな、そういう音楽は俺らは全然望んでない。結局は白人の頭で、憧れで選んだホワイトブルースやったしね。黒人の人たちには浸透してなくて、JB(ジェームズ・ブラウン)やらがやっぱ受ける。ファンクなやつとか。でも、レパートリーを少し、映画「ウッドストック」のサンタナの曲を取り入れたり、ジェームス・ギャングの曲やら、「無法の世界」というザ・フーの「won’t get fool again~♪ババン!」っていうのが、ああいうのも、あんまりサンハウスに似合わんやったけど、やってみたら結構良かったりしてさ。流行り歌はイエーイっちなるやん。そういう新しい、俺たちも生き残るためには、レパートリーを少し、いろいろ入れたりして。そして佐世保が終わって…
そのときシーナさんとは別々だってことで?
シーナはね、最初は俺だけ行ったけども、寂しいけって来たんよ。
途中から?
うん。あんまり良くなかったけど、他のメンバーは男ばっかりなのに、俺だけシーナと別の部屋借りとったけん。やけん、いろいろ良くないというか、あんまり気に入らんやったメンバーもおった。
まるで、ビートルズにヨーコが来たみたいな。
そう。でもね、本当はシーナはサンハウスも、自称一番のグルーピーって。
いやいやもう、それは一番のファンでしょう。
「私が見つけたのよ」って言いよった、音楽を尊敬しとるから、好いてくれとったから、ものすごい応援になるし、励みになるし。
その次の年ぐらいから、少しずつオリジナルを作りだしたのね。浜田君(サンハウスの当時のベース浜田卓氏)が、カバーをするのは俺は得意やけど、「オリジナルは自分は全然、心がそそらん」って、浜田が辞めて。浜田が入ったときはバイキングのやつがサンハウスに来たというので、俺たちはものすごい自信になったし、博多の特別なベーシストがこんなできてすぐのバンドに本当に入ってくれるのかって。でもそこは柴山さんとかが説得したり、それと浦田もバイキングのボーヤもしよったけん、昔、ドラムの見習いで。コネクションがあったけん、頼りの浜田が辞めて。でも辞めたけど、奈良が頭角を出してきとったから。奈良(敏博)に頼もうち言うて、奈良もすぐ引き受けてくれて。それでオリジナルを少しずつ作り出したという感じや。
それで「キング・スネーク・ブルース」が生まれた話も前回出ましたしね。
それで家でシーナと、ちょっとこんな感じでするけんち言うて、ドラムの代わりに段ボール箱持ってきて。
それ僕もよくやってました(笑)。
リズムボックス代わりに「俺の身体は黒くて長い~♪」みたいに、家で作るときはシーナと一緒に全部作りよった。
それでオリジナルがどんどんできたことによって、さっきの話じゃないですけど、レコーディングを。
そうだよね。それでも本当に自分らでは、もう次元が違うぐらいレコードの、俺たちのファンのアーティストははるか雲の上で、俺たちがレコードを出すなんて、誰も望みも持ってなかった。
それがちょっと意外だったんですけどね。まさかと思った話でしたけど。
今はもうそういうのがないと、音楽ってやれんという裏の話もあろうけど、特にチューリップやら海援隊が、行ってきますみたいな、頑張ってやってきますみたいにして、(東京に)送られて行くというのを、目の前で見たもので、あるいは噂で聞いたのか、どっちかわからんけど、かっこ悪いと思ってさ。そげんせんとレコードっちゃ出せんとかっちゅうてから、誰かの言うこと聞かんと出せんとか?みたいなさ。それでもう、話しとうないみたいな、そげな東京から言うてきても、俺たちは東京は行かんし、もう好きな音楽を作るだけで、ものすごい楽しかったし。
サンハウスはそれを貫きましたからね、最後まで福岡を出ずに。
うんうん、そういう意味ではね。
レコードは出していきましたけど。
福岡に聴きに来てほしいち柴山さんも。ようインタビューやらで言いよった。
実際それで何年間かやって手応えも感じてました?福岡でやっていけるなっていう。
いや、やっていけんと思った。
そうですか。やっぱりそういうところがあるんですね。
しかも日本語のロックというのが、めんたんぴんやら、センチメンタル・シティ・ロマンスまで出て、上田正樹(上田正樹とサウス・トゥ・サウス)も、ウエスト・ロード・ブルース・バンドも。竹田和夫のクリエイションやら、本当にギターロックのバンドがいっぱい生まれたけど、みんなレコードは良いけど、レコードのプロモーションみたいな概念がまったくわからんやった。
全然印税ももらえなかったみたいな話も、結構衝撃でした。
印税をもらえんやったというか、夢本舗に任せとる感じやったからね。
それは食っていけないですよね。
で、篠山さんやら柴山さんがちゃんとしよることはわかっとったからさ、まあそれが宣伝のために、俺たちのためやしっていう割り切りはあったんよ。お金をもらうためにしよるんじゃないけどね。だけん、そこは今になって思えば、こんな形でしか言葉にできんけど、当時はそうでもなかった。なんだかんだお金ももらえたんかもしらん。自分の記憶が、都合の悪いところはどこか消えとる。
そのころって福岡って、いわゆる放送局、ラジオ局とか結構強いじゃないですか。KBCにしろRKBにしろ。RKBには野見山さん(元RKB毎日放送ディレクター野見山実氏)、KBCには岸川さん(元KBC九州朝日放送ディレクター岸川均氏 https://mccf.jp/column/17/)がいて、そのときのサンハウスとの関係性でいうと、どうだったんですか?
やさしくしてくれたね。岸川さんもそうやし、RKBの野見山さんも
僕らが初めてラジオでかかったのは、今になってはそうやったのかと思ったのは、九電記念体育館で、あれはサンハウスの次の年やけ、72年か。九電記念体育館で初めてのばかでかいコンサートがあってね、それで、チラシも記録残っとるんよ。「昭和元禄 夢でよかったらええじゃないかフォーク・ロック コンサート」という夢本舗が初めてやった…
イベントなんですか?
イベント。それで、高田渡やら、泉谷しげるやら友部正人、そうそうたるフォークの夢本舗が九州でブッキングしてるアーティストに、地元のサンハウスが手書きで付け加えられとる感じで。
地元から唯一ぐらいのエントリーで?
うんうん。それで、カルメンマキも出たかな。ロックは2つぐらいか。なんか野心を燃やしたというか、俺たちもやって、すごい手応えがあったんだけど、NHKで初めて夕方集めて、なにか放送するとなって。
テレビですか?
いや、ラジオ。なんかいてくれって言ってきとるよとか言って。一番得意の「ハイウェイ61」を俺たちは演奏したんよ。それで、普通、2、3番まで歌ったらギターソロになるようなやけど、俺たちはアレンジを、オリジナルを忠実に延々と歌って、やっとギターソロが来るっていうのをラジオでガーって聴きよったら、歌が終わって、ギターがカーンって鳴りだしたらヒューって終わって。
フェードアウト?うわ。
最初のとき、ガチョーンってしてさ、でも今になったらあれは、九電記念体育館のコンサートとの絡みやったっちゅうことで、当時はなーんもわかってないよね、そいけん。それでそのコンサートを盛り上げるために、地元の海援隊の下かな、矢野さだおという、あの頃いろんなフォークシンガーがおって、マンドリンも弾くし、スプーンで、チャッチャカチャッチャカ、2本もって、テテテテ、タララ、タラララッタ、ブルースマンがするような、ものを取り入れるとるようなフォークシンガーがおって、「おおー」って言うて、「そげんするんか」って言うてさ。いろんな個性的な人が、そういうのからいろんな出会いが。で、フォークの人たちもすごいねーちなって、スリーフィンガーを千葉君(海援隊のギタリスト千葉和臣氏)に習ったりした。交流がすぐ始まって。そのころからは自分らもフォークだ、ロックだなんてあんまり言わんごとなって。逆に今度は海援隊とサンハウスで初めて、それはそのコンサートの後やったかな。「ライトオン」とか名前つけて、久留米と、明治生命ホールを借りて、自分らだけでやって。また翌年に「サンハウスショー」というタイトルで、3回までやったね。その3年、74,5年ぐらいかな。
海援隊って僕のイメージでは「母に捧げるバラード」のイメージが強かったじゃないですか。でもアマチュア時代の話をお伺いすると、結構ハードロックバンドみたいなことも、だって武田鉄矢さんって今思えばマーク・ファナー(グランド・ファンク・レイルロード)みたいな髪型してるじゃないですか、あの時点で。結構影響受けてたっていう話、聞いたことあるんですよ。
俺たちは音楽でつながったんじゃなくて、マネージャーしとった甲斐田君というのがサンハウスを手伝いだして、それで紹介してもらって。そいけん、浦田とかが海援隊を手伝ったりしたりとか、交流は、音楽は人気があったから、一緒に2つ合体してやってみようよみたいな、そんな感じやったし、中牟田(海援隊のギタリスト中牟田敏男氏)というのが…
ギターのね。
中牟田がまた理論派でさ、いろんなおもしろい曲を作ったり。それとか、鉄矢はやっぱり、機転の利くMCがすごいおもしろかった。岩田屋とかでしよるけん、観に行ったら、いきなり客をいじって、「あんたの歯は麻雀牌のごたるなー」とか(笑)。おかしいでさ。
おもしろいですよね。
うん。一番前の人にね。
お客さんをいじれるのがすごいですよね。
まあ肝が据わっとる。マネージャーもサンハウスも手伝うようになって、そういう関係で海援隊もすごい友達やった。能古島でもあったし。
そうか。そんなのもあったんですよね。
(※1)「ダンスホール(箱)の専属のバンド」という意味。箱バンがいる店では、1日数回のステージショーが行われる様なところもあった。
(※2)1970年公開のアメリカ映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』は、1969年8月15日から17日までの3日間、米国・ニューヨーク州ベセルで開かれた、ロックを中心とした大規模な野外コンサート「ウッドストック・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)」の模様を記録したドキュメンタリー映画。
(※3)1969年4月に中村とうよう、飯塚晃東、田川律らによって創刊された日本の月刊音楽雑誌。単なる音楽紹介に留まらず、新しい音楽ジャーナリズムを提起した。後に「ミュージック・マガジン」に改称。
(※4)福岡発地域ドラマとして、NHK総合(九州沖縄地方)2018年3月2日に放送された番組。シーナ(悦子)役を石橋静河、鮎川役を福山翔大が演じた。
(※5)1971年に開店した博多区須崎にあった伝説のロック喫茶で、博多のロックの発祥地とも言われる店。空いた時間を練習に使えるように合鍵をバンドに渡したりと、サンハウスを始め後のめんたいロックと言われた数々のバンドの拠点となった。1978年に惜しまれつつも閉店。
(※6)1974年8月に福島県郡山市開成山公園内の総合陸上競技場で開かれたロック・フェスティバル。30組以上の日本のアーティストに加え、アメリカからはヨーコ・オノ&プラスチック・オノ・スーパー・バンドやクリス・クリストファーソン&リタ・クーリッジなども参加し、日本のロックフェスの先駆けとなった。
(※7)1968年1月にアメリカ海軍の原子力空母エンタープライズが寄港(米軍佐世保基地へ入港)し、当時国内で阻止運動が起こった。
(2022年9月30日 福岡市 風街にて)
企画/編集 松尾伸也
制作/インタビュー 深町健二郎
鮎川 誠(あゆかわ まこと)
シーナ&ロケッツ
1948年、福岡県久留米市生まれ。九州大学農学部卒。
「シーナ&ロケッツ」のリーダー、ボーカル・ギタリスト。
1970~1978年、福岡を代表するバンド「サンハウス」のリードギタリスト・コンポーザーとして活動後、1978年よりシーナ&ロケッツを結成。『涙のハイウェイ』でデビュー。『ユーメイ・ドリーム』が大ヒットとなる。エルビス・コステロやラモーンズともライブで共演し、1981年にはアルバム『SHEENA&THE ROKKETS』でアメリカデビューも果たす。
「ロックは生だ。音で勝負!」という鮎川の指針のもと、アリーナクラスから数々のフェス、ライブハウスに至るまで、妥協なきステージングで繰り広げられるライブアクトを中心に活動を続けている。
結成時のオリジナルメンバー奈良敏博(Bass)、川嶋一秀(Drums)を現在も擁し、質・量ともに群を抜いたその活動歴は、ジャンルを越え、日本を代表するロックバンドとしての可能性を独走状態で追求し続けている。
ロックが出来るところならどこにでも行く、どこでもやるというフットワークの軽さは、鮎川が74歳を迎えた今もまったく衰えることはない。
2014年7月に発表したシーナ&ロケッツの18枚目アルバム「ROKKET RIDE」はロング・セールスを記録中。
自身のソロ作としては『クールソロ』(Alfa)、『London Session』シリーズ(Speed Star)がある。
2016年シーナ&ロケッツのシーナとの出会いから、シーナ&ロケッツ結成秘話、これまでの生き方について語ったロングインタビュー番組CROSS FM「HAPPY HOUSE」が、日本放送文化大賞グランプリを受賞。その語りを「シーナの夢」 (西日本新聞社)として書籍化される。
2017年11月には47都道府県ツアーを全県踏破して40周年目に突入した。
2018年3月シーナ&ロケッツ40周年を記念して、鮎川誠選曲・監修の元、41曲が収録されたシーナ&ロケッツのベスト盤「ゴールデン・ベスト EARLY ROKKETS 40+1」「ゴールデン・ベスト VICTOR ROKKETS 40+1」がそれぞれ2枚組でビクターとソニーから発売。
またシーナ&ロケッツの半生を描くドラマをNHK福岡が制作。3月に九州・沖縄限定で放送され話題に。全国からの多くの反響により、早くも5月に全国放送が決定した。
音楽以外では、モデルとして多くのテレビCMや広告に出演するなど、その独特の存在感で多くの人を惹きつける。
俳優としてテレビドラマNHK『ちゅらさん』などに出演。映画では『ジャージの二人』(08年/中村義洋監督)をはじめ多くの出演作も。『ワルボロ』(07年/隅田靖監督)では映画音楽を手がけた。また、音楽・コンピュータへの博識を活かした『DOS/Vブルース』、『60’sロック自伝』『200CDロックンロール』の著書もある。
鮎川誠 シーナ&ロケッツ 最後のワンマンライブ、DVD発売!
昨年11月23日に新宿ロフトで開催されたシーナ&ロケッツ45周年記念ライブがDVDとして発売が決定!
オリジナルメンバーの奈良と川嶋、そして鮎川とシーナの愛娘LUCYをボーカルにアンコールまで全24曲・2時間の熱狂ライブ。病に冒されながらも、最期まで公表せず走り続けた鮎川誠 渾身のラストフルライブ。
45年一切のブランクなくロックンロールし続け、どこまでも真っすぐに貫く鮎川誠の生き様の凝縮をファンに捧ぐ。
鮎川誠の誕生日5月2日にDVD発売!
特典DISCには、鮎川誠の74バースディ・インタビュー・ドキュメンタリー、追悼メッセージ、貴重ライブ&プライベート映像が収録されています。特典DISCには、2015年から2022年までのレアなライブ映像やバックステージ、プライベートの模様や縁あるミュージシャン友人達からの追悼メッセージを2時間半収録。
2023年5月2日の鮎川誠追悼ライブ会場で先行発売。またOffcial SHOPにて、まもなく予約販売となる。
「鮎川誠 LAST LIVE -シーナ&ロケッツ45周年ライブ SHEENA 45 th Birthday Live at LOFT」
特典DISC付
2枚組DVD (4時間30分収録) ¥4,700(税込)