【福岡レジェンドロング・インタビュー・シリーズ】街と音楽の記憶 第2回 鮎川誠(後編)
福岡を音楽都市たらしめた先人達の証言を集め検証していくプログラム。
「福岡レジェンド ロングインタビュー・シリーズ“街と音楽の記憶”」
第2回目は「めんたいロック」と呼ばれる博多のロック・シーンを築いた一人、現役ロックレジェンド鮎川誠氏〜後編〜
このインタビューは、昨年(2022年)の9月30日に行いました。今思えばその時既に鮎川さんは余命宣告を受けていたことになりますが、当然我々には知らされておらず、いつも通りの元気な(そう振る舞っていらっしゃる)鮎川さんが目の前にいました。改めて振り返ってみると、インタビューに入る直前に鮎川さんが「ちょうど昔の話をしたいと思っとったんよ」と仰っていて、その時は何気に受け止めていましたが、”残しておきたい”という強い気持ちがあったかと思うと、このインタビューが鮎川さんなりの遺言のように思えて込み上げてくるものがあります。鮎川さんが遺してくれた貴重なWords of Rockが、少しでも多くの皆様に届きますように!(深町健二郎)
サンハウスの解散とシーナ&ロケッツ結成秘話
ヤマハがね、なにしろヤマハが動かしよった。「8.8 ROCK DAY」というのが大阪であって、東京で「East West」というのがあって、こっちで「L-MOTION」という名前つけて。それにサンハウスを起用してくれて。それとか、それに至るまでの、各地方でのオーディションを兼ねたコンサートにサンハウスがゲストでということで、大きなステージを演奏させてもろうて、おまけにアルバイト料までくれたり。ヤマハが全部。アンプはどこ行ってもヤマハやし、フェンダーがあるとかっていうことはない。大概は青い布が縦縞の模様が入って。そいけん、ヤマハ(福岡ビル1階にあった日本楽器)は僕らは、本当は柴山さんの居心地の良い、第二のマイルームやったからね。カウンターにおるんやけ、姉ちゃんたちがおるやろ?ずっとこうして。
そこかアウトリガー(福岡ビル地下にあった喫茶店)かみたいな。
うんうん。それで、新しいアルバム、ちょっとこれ、あとで買うけんといって、必ず柴山取り置きコーナーがあって。ヤマハも本当に応援してくれたと思う。
そういう意味では、僕もその頃すでに音楽に目覚めて、好きだったから、「ロックンロールの真っ最中」とか、シングル盤買いましたもん。
買うてくれたと?「レモンティー」と。
博多にこういうバンドがおるんやというのは誇りに思えましたよ。僕はドラムを始めたばっかりで、いきなり鬼平さん(サンハウスのドラム坂田紳一氏)のシャッフルビートがコピーできなかったんですよ、難しくて。
合わんよね。
難しかったです。普通のエイトビートじゃないけん。
鬼平はブロークダウン・エンジンで、そのバンドは俺のレスポールのオリジナルの持ち主の津和野勝好が西南学院の71年の10月か11月に学園祭で作ったバンド。
黒いレスポールの伝説
俺たちはそのころ一番最初にカバーした曲で、ジェフ・ベック・グループの「ゴーイング・ダウン」という曲があって、ジェフ・ベック・グループのセカンドアルバムに入っとったんよね。レモンの(ジャケット)写真がこう。ケケケケーンって。「ゴーイング・ダウン」が俺たちのお気に入りの新しいレパートリーやった。その時にブローク・ダウンが出てきて、フリートウッド・マックのピーター・グリーンの「ストップ・メッシング・アラウンド」やったかな。ビックリしてさ、ドラムが良くて。それが坂田(後の鬼平)やったんよね。博多は別件でいろいろ会うたりしても知っとったけど、このドラム絶対すごいと思って。でもそのときは浦田がずっと頑張りよったから、その浦田が東京に行くから辞めるっちゅうて…
ストーンズに入るとかっていう話、言ってましたよね(笑)。
実際はショットガン(※1)やったんよ。
なるほど。ショットガンでデビューしましたからね。
もう坂田(鬼平)が入って、これで最高だっちやっぱり本当に思った。
なるほど。実際にずっと福岡で、3枚目までアルバムはあるし、どうなんですかね?どういう感じでサンハウスは終わっていったんですか?
74年にデモテープ作ったり、東京に行きだして、郡山の「ワンステップフェスティバル」へ行って。ジョニー野村が一生懸命応援したり、東京に出て行ったときには武蔵小金井にある大きな公会堂を貸し切って、ゲネプロやるんだとか言いよったけど、俺たちはなんのことかわからんのよ。そこで本気で演奏してくれとか言われて。しよったら、鮎川!とか言うて。ソロに入ったとき、「一歩前に出てきたらどう?」とか、「するとすぐ君が弾いてるってわかるから。うしろで急にソロを弾きだしてもお客には伝わらん」とか。「お客の目を見てはいけないけど、客席の真ん中あたりを見ると、お客は自分の後ろの人を見てるから、いつか俺に目が合うかもしらんと思うて、また目が離せんごとになる」とか、いろんなステージのティップスというのか、すごいアドバイスして、一生懸命応援してくれて、東京で、なかなか二人三脚で東京の事務所と。
柏木が夢本舗を抜けて、そっちに入って、俺らのマネージャーやったんよね。でもマネージャーといってもなあなあのマネージャーで、契約とかじゃないから。言われた通りにしよるだけ。交通費やらは用意してくれよったから、行けば宿泊もあって、飯も食うて。ただ金をどういう仕事をしたからもろうたとかはなかったけど、お金の出るような仕事はしよらんやったんかもしらんね。宣伝を兼ねてライブハウスもやったし、75年はそういう感じで『有頂天』(サンハウスのデビューアルバム)が出たら、まだ有線放送の時代やけ、夢本舗に行くと、みんなのし袋に10円入れて、手書きで「ロックンロールの真っ最中」よろしくやら書いて、有線放送でかけてとか、シーナも10円、5円玉か10円玉作って手伝いよった。
結構それ大事なプロモーションでしたね、当時はね。
なんかそういう感じで、夢本舗ともすごい良かったけど、76年に『仁輪加』を作りにいって・・
2枚目のアルバム。
すごい俺たちは良かったけど、ちょっといろんな分散した感じで、ブルースロックが取り柄やったけど、いろんな新しいロキシー・ミュージックやら、ルー・リードがソロになったような。
そういう新しいサウンドがちょっと加わりましたよね。
ああいうのもちょっと色気あったし。
好きですけどね。
篠山さんもブリティッシュ・トラッドのフェアポート・コンベンションやら、スティーライ・スパンとか、バート・ヤンシュみたいな。篠山さんは1人そっちの世界に行ったりして。
方向性がちょっとブレ始めたというか。
うんうん。75年ぐらいに方向性がずれて、ブラックツアーというのを東京の主導で。
レーベルの?
うん。ブラックレーベルでもあるし、それをファンにしたブラックツアーをトランザムとCharとやって。その時サポートメンバーで、浜田良美っちゅう、長崎大学で、すごいジェスロ・タルみたいな奴がおってさ、もうアマチュアで見たときからこの人すごいやんって言いよったらやっぱり案の定ヤマハからデビューしたけど、やっぱりヤマハからデビューすると、ちょっと難しいんよね、逆を言えばね、全部してくれるから。そこにCharがおったりして。野音で1回見たスモーキー・メディスンで、噂になっとったあのCharだとか思って、仲良うなったりしてね。翌年には今度はゴダイゴが勢いをつけてきて、それもジョニー野村やった。
ジョニーのプロダクションの手の中で、俺たちはなんもわからんでしとった。孫悟空はどこまで行っても俺は自由だっちゅうたら、その手がジョニー野村やった(笑)。ジョニー、亡くなったんよね、去年。
そうなんですか。
それもネットでニュースが流れてきたけど、全然詳しいことはわからん。フィリピンかどこかで老後暮らしよったみたい。ジョニーと75年までやったけど。
『仁輪加』までではジョニーさんと?
うん。それで、その年の秋に、中洲にあったビッグトゥギャザーというディスコがあって。
ありましたね。行ったことありますよ。
そこでライブレコーディングをしたんよ。東京からモビールユニットで、わざわざエンジニア付きのバスが来て、それは画期的なことやった。博多にまでモビールバスが来て、卓が乗ったね。それでビッグトゥギャザーで音源を録ったけど、それが77年に出れば、5、6、7と年に1枚出せたけど、それがちょっと、夢本舗もサンハウスから手を引いてしまって、それからジョニーもなんかおかしくなってというか。それでその年の冬に篠山さんがカタギに戻らないかんと、揉めとったという感じで。それでマネージメントもぐちゃぐちゃやったこともあるし、篠山さんはアルバイトはようしよったんよ。俺も何回か、2回ぐらい連れて行ってもらったけど、看板ありの大きな国道のずっと向こうからでも見えるような…
ビルボード的な?
ビルボードのポスターを、部分部分貼っていくと、遠くから見たらひとつに見える。ああいうの篠山さんすごい得意で、俺も教えてもろうて。そやけどやっぱ、そっちの仕事で辞めるっちゅうことになって。それで4人になったけど、もう77年はラモーンズで、ピストルズやら、クラッシュやら、ジョナサン・リッチマンのモダンラバーズ、ミンク・デヴィル、もう良いのがどんどん出てきてね。
それはそれで良い時代ですよね。
それで、フーやらと同じギター一本編成のバンドがすごい多かったし、俺たちも篠山さんがおらんととてもやれんっち、まずよぎったけど、4人のやつもひょっとしておもしろいかなと思ったら、それはそれで鬼平と奈良と、柴山さんと俺の4人バンド、すごいおもしろくて、それで77年は4人で1年間したかな。そやけど10月に奈良と鬼平が一緒にやめるってなって、それで柴山さんが若い川嶋(ドラム担当の川嶋一秀氏)と浅田(ベース担当の浅田孟氏)をモッズから連れてきて。
わりと良いよとか言うて。俺も「いいね」顔もきれいしさ。練習しだしたけど、俺はもう、やっぱりやっていけんかもと思ったんよ。それは培ったものがないものと、あれがああなっとるやろ、経験というような、あれのあれが通じなくなったんよ。その「あれが」というのは、ストーンズやったり、スリム・ハーポのリズムとか、B.Bキングのあの重たい16ビートやったりとか、マディ・ウォーターズのスウィングするシャッフルとか。もう毎日、奈良やら、鬼平やらと一緒に聴いてきた音楽の、一番上だけが伝わっとうだけで、そのルーツがないところまで一緒に練習したいという俺の欲張りな思いと、もう時間が足らんというのもあって。それで78年になって博多駅前のインディペンデントハウスというディスコが最後の仕事やったかな。それでいろんなマネージメントも、全然なんかもうわけわからんようになって。俺は子供が76年に双子が産まれて、シーナの親父が「マコちゃん若松で一緒に住まんね」とか言うて、「じゃあお世話になります」と言うて居候して。「あんたたちはなー」って、いつもサンハウスのこと好きなんよ。「菊(柴山)さんがええけのー」なんて。
なんか応援してくれてるイメージがありましたよね、ドラマ見てても。
「あんたのギターもよかばってん、博多じゃねえ」っていつも酒の晩酌で言いよったんよ。それで結局、俺は進路、ちょっと1回クリアせんと、柴山さんと相談して、そしたら柴山さんがKBCの岸川さんに相談して、テイチクレコードも「ドライブ」って後でタイトルつけたけど、そのライブ音源を岸川さんも応援するみたいな感じでテイチクから出すと。それが3月やったけど、それが出たのをひとつの区切りで1回活動を休止しようみたいな話になって。それと前後するんやけど、柏木が俺に「カモン」をレコーディングしないかって言うてきた。「カモン」なら歌いきるけど、パンクロックが今受けよるけん、パンクのアレンジでしたらいいけん、「マコちゃんレコーディングしよう」とか言うて。78年の3月に解散したけど、そいけん解散するに至るまではちょっと俺もお金を稼ぐために、中洲やらそういう職場があれば仕事ができることないかとか、いろんな先輩やらに当たったりもしよったけど、みんなに言うたけど今はもう全然仕事にならんと。親父も、「東京で勝負かけてきない、1回かけてダメならよかやない、ずっと博多におったらもう煮え切らんまんま時間ばっかり過ぎるよ」って。そういうすごい後押しがあったけ、4月にまず東京に行ってというのが、今度はシナロケの始まり。3日ぐらい経ったら「私も来たよ」ってシーナが来て。
あのまんまですか?ドラマのまんまで、急に歌うようになってみたいな?
そうそうそう。でもね、2月、もう若松に来てからは、部屋でよう作りよったんよ、シーナと曲を。ほいで、俺たちバンドするかもしれんねと言うて、ロックとエッコとか書いてロケッツとかいう青写真ももう、3月~4月ぐらいから、空想やけど言いよったんよね。でも、シーナが「私も来たよ」って来て、「いいやん、見ていき」とか言うたら、親父が、「マコちゃんのところに手伝い行かないかんめぇもん」って。
お父さんが背中を押して。
「こっちにおったっちゃ、うわの空で何も手につかんけ、そんぐらいなら東京行ってこい」とか言われて、来たよって。それでタクシーの中でその日のレコーディングの光景を見て、「私もレコード作りたい」って、「自分のレコードで歌ったのを自分で針乗せて聴いてみたい」って。えらい現実的なんよ、俺もそうやし、そうやってレコード乗せて聴くことはとても神聖で、素晴らしい未知の世界の入口やし、それをエッコが自分の歌を自分で針乗せてっていうその言葉がすごい嬉しくて。「作ろう!」ってなって、それで決まった。
それで「涙のハイウェイ」が。
最初は柏木のアイデアで、プロモーションを兼ねたような曲を1曲ゴダイゴが一緒に演奏してくれて、「アイ・ラブ・サウロ」という曲を伊藤佳伊子さんという人に作って、そのレコーディングを見にきよって、「なんかロックの歌い方やないね」とか言いよったんよ、こっちも。コンソールの方から「ガン!ちパンチがない。ここはもう息継がんで歌った方が良いのに」とかなんか。伊藤佳伊子さんも「あなたのほうが歌えるかもしらんね」とか、「聞いたこともないのに言われたよ」とか言いよったし。そんな感じで一緒に。でも、そのときは「カモン」だけ、吹き込んだ。
でもそれはレコードでは鮎川さんが歌ってる?
いやいや、それシーナが、全部歌詞を覚えて、ダブルユニゾンで歌ったトラックもあったり。相当気合入っとった。チャック・ベリーも妹さんが歌いよるやんね。チェスの音源、後ろでさ。「これほら、コーラス入っとるよ」とか言うて。そんで「歌うてん」と言うたら、「カモン」だけやない、主題も歌ったりして、いろんなテイクを試して、それでそのときは1回帰って、6月には今度は計画やった「アイ・ラブ・サウロ」がリリースされて、柄本明の東京乾電池が立ち上げ公演で「アイ・ラブ・サウロ」を劇仕立てにして、それで劇中挿入歌みたいな感じで、生で伊藤佳伊子さんが歌うんよ。俺たちは楽屋の下に、オーケストラピットみたいなところで生演奏したり。そのために6月行って、それでリハーサルをやって戻ってきて、そのときは俺だけやったけど、バンドの音がほしいっちなって、鬼平と津和野と奈良に連絡して、6月の何日かは忘れたけど、ダークサイドムーンに、ぱわぁはうすやったけどダークサイドムーンに店が変わって、それで、ぱわぁはうす時代からサンハウスの楽器は置いたままやった。手慣れた楽器で鬼平のドラムと、奈良のベースで、それまで東京のエルボンでやったり、それからサンハウスの「400円のロック」とか。
またレコーディングしたんですか?
レコーディングというかカセットレコーディングして、それで音源持っとかないかんっちゅうのがあって、音源づくりを鬼平に頼んだ。それでメインは「涙のハイウェイ」と「恋はノーノー」。それはもうシングルで作るっち言いよったけ。それで8月にもう1回、柏木が僕とシーナの、ロケッツ、ロケッツ言いよるのに、鮎川誠&ミラクルメンという名前で、仮の名前みたいな感じでロフトを押さえたんよね。8月11日やったかな。「えー」っちなって、またシーナと。シーナはそれが2回目。そのときリボンの社長とかにも売り込んで、「今度ロケッツというバンドをやるけ応援してください」とか言うて。「音あるの?」とか言うけ、「音録ってきとる」って、満を持して、ものすごく気に入っとったんよ、ごきげんで。そしたらビューンってかけたら、「あ、それダメだよ」って。「カセットなんか今、デモテープと言えどももうマルチでみんな録って良い音で聴かせないと、とにかくカセットなんか聴かせちゃダメだよ」と。「へー」とかなって。なにもわかっとらん、こげん良いグルーヴでかっこいいのにとか。もう逆ギレして。
それでロフトもやって、その時のメンバーは「アイ・ラブ・サウロ」をコックピットで演奏した、ドラムの新井田君、後にRCに入る新井田耕造がドラムで、彼うまかったから言うたらその通りするんやけど、そのルーツを話すのが同じようにジレンマが来て、やっぱり博多の者としては、博多で一緒に音楽聴いた人達とせんともう俺しきらんかもしらん。譜面も書けんし、自分の考えを口で言うといっても、うわべの博多弁をおもしろがるだけで、あんまり聞いてくれんけんさ。「なんで博多弁しゃべるの?」やら言われて。しゃべりきらんけんたい(笑)って言う。それで、その8月のあとにもう1回帰ってきて、あのときはまだルーツの埋まらんようなジレンマを感じよったけど、それやったらもう川嶋はサンハウスの曲は叩けるけんね。一緒に長いこと練習したし、ロフトではすごいステージやったんよ、その5人。潜水艦があるロフトで、まだできたての。超すごかったと思う。でもなんか、俺がなんか、ドンと行ききらん感じがあって、ビクターがレコード作ろうとか話もしてくれよるのに、もうちょっと埋めるとこ埋めんと、なんかちょっとまだやねとか…
鮎川さんが乗らなかったんですか?
乗らんやった。
なんでしょうね。
恥ずかしいと思ったんやね、サンハウスのレガシーを全部ぶち込みたかったけど、レパートリーは良かったんだけどね。そんな感じで川嶋、やっぱりサンハウスと一緒にやった仲間とは全然違うけ、浅田、川嶋で9月ぐらいまで、8月に説得して、一緒に東京に行って、ロケッツのメンバーでやってくれん?って、シーナがものすごい川嶋が良いと言った。顔がきれいだし、音楽も素晴らしいし、ドラムは今流行りのテクノ風の、ゲームみたいな。
カチッとしたビート。
なんかゲームみたいなドラムやし、絶対良いから、私、川嶋とやりたいって。浅田も良いし。そしたら浅田が病気になって。でも俺たちは東京行くっちなって、78年の9月に初めて東京でアパートを借りて、それで奈良に1回出て来てもろうて、川嶋はそのときは呼ばんで、新井田と奈良とで1回録っとったんだけど、「涙のハイウェイ」をもう1回激しい感じで。ベースが変わると全然違う感じで、シングル版になっとるバージョンのやつをもう1回録って。10月25日に発売した。あっという間に。そんな感じで78年はなんか…
それで『#1』という、最初のアルバムが…
『#1』は次の年に持ち越すんだけど、10月25日ごろ、グラハム・パーカーが来日して、メンバーが福岡にも来て、ダークサイドムーンにみんな、夜にジャムセッションして。
へー、そんなこともあったんですか。
グラハム・パーカー以外がみんな来てくれて、サンハウスもアンプで演奏して。写真もあるっちゃんね。岩崎ってカメラマンがおる、すごい今大御所やけど。
ルーモアのメンバーが全員来たんですか?
うん。アイリッシュっていう、ジョニー・サンダースでもサックス弾きよった彼もおって、みんな来た。それで俺たちは外国のバンドやらとも、チャック・ベリーっちゅうだけでつながるような、ロック語がしゃべれるっちゅうか。
共通言語ですよね、もう。
言葉がわからんでも本当につながる世界をすごい感じで。その1か月後にコステロのオープニングアクトもね。麻田浩(※2)さんもジョニー野村の同じ仕事をしよった。
なるほど、そこからね。
日高(日高正博氏 スマッシュ代表、フジロックフェスティバル創始者)さんもね。みんなジョニーのところ行ったり、同じ釜の飯を食う。そういう贔屓があったのもあろうけど、ちゃんと麻田さんが、新しいバンド、ロケッツと言うてから紹介してくれて、それで。
良い組み合わせでしたよね、ロケッツとコステロもね。
もうコステロのあれは、6ステージやったけど、福岡でシーナの喉が腫れて、大阪は良かったんだけど、初日、2日目、楽屋でお酒を浸して首に巻いとるけど戻らんで、声が枯れて、「涙のハイウェイ」を、もう今日歌わんでいいくさといってから、俺たちは好きな曲ばっかりしようやっちゅうて、シングル盤やらしとったらかっこ悪いけんとか言ったら、すぐ怒られてさ、フォノグラムの、エルボンの上の会社がフォノグラムで、なんでその曲をやらないんだみたいな、そういうことで俺たちは出とるんかみたいな、やりながらどんどんいろんな事情がわかってきて。それで3日目に東京に行ったら高橋幸宏が来てくれとって。久保田麻琴と3人おって、すぐ細野(晴臣)さんに言うてくれて。「いやー、かっこいい」みたいな、すごい激励してくれてさ。
それで『真空パック』に繋がる。
うん。実は俺たちはエルボンで今レコーディングしよるけど、暮れに帰って正月にまた東京に行って、そしたらLPができたんだけど、俺の言うた曲順も12月に完パケの作業をして、こんなふうに作ろうっちなっとったのに、柏木がLPできたよって持ってきたら、違うバージョンが3曲入っとって、これじゃないやろってなって、文句言うたんよ。それで、2月25日発売でもうエルボンは注文取ったら、それなりにサンハウスの名前のおかげもあったりして、予約が入っとるのに、俺が作り直す、もう1回確認し直してって言うて、柏木も押しの強い奴やないけ、柏木は説得すれば聞いたのかもしらんけど、シュンとなってさ。それで、もう1回作り直すんで、発売が3月にずれたんよ。そしたら親元のジョニーが怒ってさ。「俺たちはみんな手を引く」とか言って、机バーンって叩いてさ、みんなおらんごとなったんよ。それで、それはそれで困ったなとか思うけど、なん偉そうにとかなって。それで、柏木もジョニーもおらんごとなって、それでも12月に幸宏が誘ってくれて、細野さんがYMOのゲストに、初めてのピットインのコンベンションという、そしたらクリス・トーマス(※3)が来たんよ。
へぇー!
クリス・トーマスも客席におる、たぶん加藤和彦さんも。錚々たる人が、細野さんの人脈で。そういう中で俺、結構ええ格好させてもろうたんよ。「デイトリッパー」歌って、「カモン」も歌って。もう1曲が「サティスファクション」と「カモン」は俺のリクエストで、「デイトリッパー」は幸宏のリクエストで、3曲歌って。それで、えらい受けも良くて。もちろんYMOが受けが良いんだけど、ゲストも褒められて。それでアルファの人が、なんかあったらって名刺くれとって、「出版の田原です」とか言うて、頼りになりそうと思って。それでその2月にバンちなって、レコードが1か月遅れて。エルボンが「鮎川さん、どうするんですか?」とか言うて、一時は「制作費を肩代わりしとるのがどれだけあるんですか?」って聞いて、それでみんなおらんごとなっとうけん、柏木もジョニーも。それで俺が田原さんに「ちょっと困っとるけ」と言ったら、「ミュージシャンはいいです。私が出て話します。」と。それでもうエルボンからアルファに移籍するっちゅう話で、そのレコードもワンショットで出せるようにという話で、一応3月に出るごとなってね。そいけん、もうそれはありがとうってなって。俺はエルボンのことや、乗り換える暇がない、もうYMOと田町のA-studioに毎日行って、もう新曲づくりに入っとって。
「You May Dream」もできてたんですか?
できとった。村井(邦彦)さん(※4)のスタジオで、俺たちはかなり、2週間ぐらい練習したかな、細野さんも来て。それで、細野さんも全部曲知ってるし、この曲とこの曲とこの曲はYMOのアレンジ、「レイジー・クレイジー・ブルース」と「レモンティー」と。「Radio Junk」を幸宏が書いてきたり、あと俺たちだけの、せーのでやる「You Really Got Me」とか、「I Got You,I Feel Good」。すぐ作って、それで作りながら、かたやYMOの『ソリッドステートサバイバー』のレコーディング。
それが並行していたのがすごいですね。YMOとね。
並行してね。そんな感じで、79年になった途端に、『#1』はすごい良かったし。
もう大好きでした。
でも結局はその、追加注文を受けられんような契約で、俺たちはアルファに行ったから。もったいないと思って、何回かエルボンに言ったんだけどもね、もう泉ピン子やら売れっ子の看板は演歌やったもんね。もともと演歌のディレクターが作った会社やったから。
あれだけ『真空パック』が売れたからこそ、本当は出したかったんじゃないですかね。
ねえ。出してくれるって話に何回か行きかけたけど。
じゃあもう再発はなかったんですか?
なかった。
じゃあ、あの時買えてラッキーでした。
ただもうあの時は自分の美意識として、もう吐いた息は戻らないと、過去の作品よりも今作りよるやつを、それから今いる4人のバンドのメンバーが東京で安心して暮らせるごとって、もう目先の前の仕事しかやる時間がなかった。
でも結果的には『真空パック』でもうドーンとシナロケが世に出て。
そうね。知ってもらえた。おかげで、今頃こんな話ができるっちゃできるから、それもしょうがなかった。
それ以降の話はむしろ皆さんよくご存知だから、改めてここでお伺いするまでもないですけどね。でもやっぱりおもしろいですね。今までの経緯、私も初めて知りました。
俺が福岡で、シナロケの関わりで、最後にとても忘れられんのは、78年コステロとやった時(※5)に、浅田と川嶋でやる予定やったけど、浅田が急に病気になって、それで一度、手伝どうてくれよった奈良に、「またごめんけど」って手伝ってもろうたんよ。それで、奈良が入ればそのまま良かったんだけど、奈良は自分のリップオフっちゅうバンドしよったから。
EXの前のバンドですよね。
ロケッツ入られんって。『#1』のレコーディングは奈良がベース弾いてくれて、それでコステロで6か所やって、俺と奈良とシーナも川嶋もみんなコステロから全部盗もうという感じやった。スピード感が違うんよ。こうやって出てくるもんなんかおらんのよ、ステージに。パーン、バーンって飛んで、ボーンって座ったら、ボーンってもう、座った次の足からもう始まる。すげえと思って、なんか生き馬の目を抜くイギリスのパンクロック業界で生き残っとる、もう自信満々なんよ。なんか全部のイギリスのロックの歴史を背負ってきとるみたいな、コステロがね、本当びっくりするほどすごいで、ギターも弾くし、マイク持ってお客を突いたりさ、いわゆるパンクなアティチュードも、怒鳴ったり、初日は怒ってギターを投げて。
コステロがですか?
うん。ドラムを蹴って、スティーブ・ナイーブはバーンって倒して、シーナが靴下カタカタにワザと履いとうとかさ。普通気がつかないところで。
チェックが、シーナさんは、そういうところにも目が行く。
そういう客をドキドキさせるとか、喜ばせるとか、目一杯しよるのを、俺たちは奈良と川嶋と。こげなことがありなんだということをいっぱい学んで、6か所終わって、それで12月24日まで東京おって、25日に福岡に帰ってきて、その日飛び入りでダークサイドムーンで、初めての…
凱旋ライブみたいな?
凱旋ライブって、なんも宣伝もないけんね。飛び入りなんだけど、自分らとしては初めての、1時間半ぐらいのフルライブを初めてやったのはダークサイドやった。それでそのときのテープがある、カセットテープが。俺は「ビールスカプセル」か何か歌って、シーナですって紹介すると、客席が「ヒュー!」って冷やかしが起こってさ、「お、女じぇ!」とか言って、聞こえよるんよ声が。シーナが「そうよ」とか言って。「シュガーリー」から始まるんよ。そしたら、冷やかしとった人たちが、その曲終わったときから「うおー!」っち、その雰囲気がすごいカセットに入っとってね、あれが博多の嬉しい思い出のひとつやね。
博多のお客さんって意外と素直なんですよね。本当に良いものを見せられたら、すごい素直にリアクションしますよね。斜に構えずに。
ダークサイドムーンという、あの時はあそこしかなかったけんね。ぱわぁはうすからダークサイドムーンになったり、ヒッピーやったけど、音楽は素晴らしい、ヒッピーやけ、良い音楽しかないし。
やっぱりシーナさんは女性ロックシンガーの走りみたいなところもありましたしね、あの時代はまだまだ。そこのインパクトは僕もすごく覚えてますね。
ちょうどコステロの初日をやる前に、シーナのお父さんが、シーナはウェアを持っとったんよ、こういう革ジャンを、「DOMON」のやつを。下がなかったけん、親父が「下も革の方がかっこいい、革のズボンの方がかっこいいぞ」とか言って。
お父さんオシャレー!(笑)
それで川端に買いに連れていってくれたと。ピタッとした革ジャンを買うて。
まだミニじゃなかったんですか?革パンですか?
革パン。革パンに革のジャンパーで、白いYシャツ着て、それがコステロの時からしばらくシーナのスタイルやった。
そんな人いなかったですね、あの時代。
アルファに入って、菊池武夫(BIGI)さんがすぐに声かけてくれて、気に入ってくれて、俺をモデルで新製品のモデルも頼まれて、いっぱい撮ってくれて。そしたらシーナは、稲葉賀恵さん、奥さんだよね、旦那さんが菊池さんで。シーナのデザインは稲葉さんがしてくれて、それでお披露目コンサートって、やっぱりコンベンションって業界を集めて、六本木で11月にその年の。もうレコードは出てすぐやったけど、その時には白い稲葉さんのドレスと、俺たち男は菊池武夫でコーディネートして、バリっとかっこつけて。その日に革ジャンを忘れて帰った、その会場に(笑)
だってもう、ロックアイコンですよ。やっぱり鮎川さんとシーナさん、めちゃくちゃフォトジェニックやから、そんなロックバンドってなかったですもんね。あのへんがまた時代の変わり目でもありましたよね、YMOが実際そういう中のひとつでもあるし、また日本のロックがガッとそこで変わって。
そやね。細野さんやら幸宏やらは。
ビジュアルもガラって変わってきて。
本当になんちゅうか、俺やら、柴山さんやら、篠山さんが、「ニューミュージック・マガジン」から少しの情報を仕入れながらも、同じようなレコードの好きな、親玉はミック・ジャガーやらキースやけどね、こうやって本当に小脇に抱えたレコードが気になるような、ミュージシャンの始まりからレコードを大事にしとる、そういう細野さんたちには何か共通の…
根底のロックスピリットが、通奏低音のように響き合って。
安心感とリスペクトと。
だって表面的には全然違うといえば違うじゃないですか。YMOが目指しているものと、鮎川さんたちシナロケがやろうとしていた音楽というのは、水と油みたいな気はしたけど、意外とそれが混ざり合ったことによって、すごくシナロケがグッとこう、世に出たというところありますよね。
人間の出会いから音楽が生まれる街
俺たちはサンハウスで、ライブハウスでやった。それからアタックでいろんな、バンドの業界的なアティチュードというか、やっぱりあるやんね、バンドの。そのバンドの経験をしとるのが自分としては強みやったかなと思うね。頭で空想して、アマチュアがそのまんま、上手いだけで人前に出ると、ゴクって唾を飲むようなことが全然ない。何をやりに来とるかがわかっとるみたいな。そういうのは、シーナもゴーゴーガールやら、佐世保で勝手に、俺に出会う前はやったりもしよったっち言いよったけ、本当にあの世界が好きなんよね。垣間見たのものが、自分らもそこにどっぷり浸かっとう風に思える幸せというかさ、そんなのがすごいあるけ。東京でたくさんバンド見たけど、プロはプロでも水と油みたいに分かれとるみたいな気がするんよ。めちゃくちゃうまい、その代わり言うことを聞くことがすごい上手。組み合わせをどんどん変えても、音楽はクールにやっていくみたいな。
博多やらなんかそれと違うて、こいつじゃないとできんみたいな、人間の出会いから音楽が生まれて、オーディションでドラム、ギターとか言うて集まったみたいな、結局無責任、誰が?、1人で決められんし、打ち明けられんし、えーとかなったり。福岡のバンドの成り立ち、例えばサンハウスの動きはとてもユニークやけど、逆を言えば世界の主流であったと思うね。ミックとキースがデルタに憧れ、結局俺たちもそれに憧れて、そうじゃないとやれんという教えがあったからやれた部分はあるけど、それを現実に実現してきたからさ、会いに行ったりして、レコード聴いて、共感して、それで一緒にやろうかみたいな部分もすごいあるから。
自然に発生して、そこでちゃんとしっかりと繋がる。
ピンとくる、今これ聴いとかんと始まらんというキーな音がみんなわかっとったというかな。
そこが結構、連綿と鮎川さんたち以降、福岡のバンドは受け継ぎましたよね。だからそういうバンドサウンドが独特なのも結局そういうところが。
そうやったら嬉しいよね。
すごいわかりましたね。本当のバンドの音の違いというか。そこの精神的なものまでベースにないと、いくらうまい人たちが集まったとて。
うまいだけじゃダメなのね。
どうですか?鮎川さん、東京の生活のほうが福岡よりも長いじゃないですか。そういう意味で東京から見る福岡とか、思いとかありますか?これからのことを考えたりしたときに、受け継ぎたいものとかありますか?
俺たちはおもしろい音を出しよるし、おもしろい空気がメンバー間にあるのを見せたいのやまやまやし、伝えたい、今日健二郎に話したこととか、前回話したこととか、福岡でどうやってロックが生まれたかという、それとかバンドの音を出す時の、音楽が始まったから始まるんじゃなくて、その前から間があるんよね。前の曲が終わって次の曲が始まるまで。カウント出してからが音楽じゃないみたいなこだわりやら、いろんなそれはほんの一部やけど。観てほしい、伝えたい。伝えたいというのはちょっとおこがましいかもしらんけど、観てほしい、共有したり、こういう「博多のロックが断然!」ということを言いたいという気持ちはすごいあるけど、やっぱり俺たちがちゃんと演奏しきらんと始まらんけんさ。
昔はこうやったばっかりの話はね、あんまり。それと年功序列みたいなのは、俺は柴山さんは尊敬しとるし、先輩やけ。先輩と後輩はあるんだけど、そいけん威張るというのは違うと思う。上が下に威張ったり、下が上にこびへつらったりとは違う。それはロックって俺は思わんのよ。そういう威張る奴がちょっと多すぎる。なんも年取ったことは威張ることじゃなくて、君もロックが好き、俺も好きたいっていうつながりやと思うんよね。でもそれはどこの世界でも、古い人は威張りたがるというか、俺もそう言いながらそうやし。
いやいや、鮎川さんは違いますよ。
でもね俺は本当に今幸せなんよ。奈良や鬼平とも言うけど、聴いてもらえるというのがね、俺は74よ。鬼平72よ。昔70過ぎたら怖いしさ、壊れそうで怖いし、それから機嫌が良いか悪いか気にしたくないし、年寄りは気難しかったり、若い人は俺が思っとったように、今の若い人も長く生きた人は汚かったり、怖かったり、それが普通なのに、本当に若い人が聴いてくれる。こげん幸せなことはないねって常々思う。
この間も吉祥寺でも本当最高やったけど、若いバンドが聴きにきてくれるんよ。俺の生音を喜んでくれる。そやけど、俺にしてみたら当たり前たいね。それにこだわって篠山さんも俺も、アンプがあればアンプの音を聴いてみる。それからギターがあればちょっと弾かしてとか、自分が好きやけんそういう音を出すけど、今はそのプロセスやらがいっぱいありすぎて、なかなか音にすぐ出らんというかさ。間に生音の素晴らしさという、楽器が持っとる。特に威張るわけやないけど、60年代までは職人が1個1個作ってしよったのが、儲かるもんやけ韓国製の部品やら、中国製の部品とか安くあげて、パカっと組み立てて。それでもレスポールっち呼ぶけど、昔のコマの一方を削ってこうしたみたいな、そんな楽器を触っておられる喜びというかさ、俺は持っとるんやけという。津和野から譲ってもらったというはあるけど。
本当にもうオールドですよね。
本当にそういう楽器を弾ける喜びと、お客さんの前で演奏させてもらえる、ちょっとへりくだりすぎて気持ちが悪いけど、演奏させてもらえる喜びがあれば、もうまだ俺たちは「男は黙って~」やないけど、「これがロックたいっ」て言いながら、演奏するのが一番伝わるならそれしかないねと思って。このOTOJIROは素晴らしいけ、きっとみんな読んでくれると思うけど。やっぱし文章より音だよね。
そうですね、音楽はね。
耳やし、目やし、ガーンとしたアクションやったりね。せっかくそういうのがあるんやけん、俺たちはチャンスがあれば、演奏する機会があったら、ジャンジャン今からもしていきたいし、福岡で応援してもろうたけん、今日まで来とるけれども、さらなる応援を俺は欲張りに願っとる。
鮎川さんがやり続ける限りは絶対みんなきっとついてきますよ。
どうぞよろしく!
いやいや、ありがとうございます。僕の中では本当に鮎川さんは、変な言い方ですけど重要無形文化財ですから。今や鮎川さんのように、たとえばエフェクターも通さずにギターから直でアンプにつなぐギタリスト少ないですもん、実際いるのかな?というぐらい。そういうストレートなものが本当はロックなんだというところも、鮎川さんが教えてくれました。
あんまりね。でもね、いっぱいおるんよ名人が。ただ俺は自分たちが曲を作ったから、それがありがたい。たぶん人の曲を弾けと言われたら、「こういう音を出してくれない?」とか言われるかもしらん。そうすると俺はバーンって、「もう帰る」とか言って、結局弾きらんのよね、協調性がないっちゅうか。
すべてがすべて相容れる必要もないですよ。
でもギブソンの音にも、本物に出会うまでのものすごい長い時間があったし、津和野が買うたちゅうて。本当にカメラマンも一緒についてきて、写真撮らせてくれとか言うて。その時間がものすごい長かったもん、本物に出会うまで。
本物の音って、音が大きくてもうるさくないですね。鮎川さんのギターを聴いていつも思うんですよ、結構大きいじゃないですか。
うん、大きい。
大きいんだけど、全然耳を塞ぎたくなるような音じゃないんです。結構浴びてて気持ちが良い。これが本当、意外とあるようでないんですよ。
ギターロックが好きやし、ロックはギターで始めようというのが俺のキャッチコピーで、キーボードやらなんやら、シンセやら、訳の分からん音からボヤーっと始まった時点で俺はアウト(笑)。ロックはギターやろうもん(笑)。
それこそ鮎川さんですよね。
それはある。それを実践したいと思うし。自分たちが曲を作れて、サンハウスも、Play The SONHOUSE(※6)をやってこげん嬉しいのは、これが「Knock on Wood」やろう、「Walkin’ The Dog」をやろう、「Boom Boom」やろうとか言うなら誰でも、どこの誰でも楽しいかもしらんけど、俺たちは「爆弾」やろう、「風を吹け」やろう、「悲しき声の赤信号」、「ぬすっと」、「鼠小僧」って、全部自分たちが作ってきた、自分らのオリジナルを、シーナ&ロケッツもそうやけど、そんな中にロックの嗜みみたいなののエッセンスを入れて表現したりとかさ。でも基本オリジナルを自分らがやれるのが本当に自慢なんよ。そのためにギター弾きよる。ギターを弾くために曲を作ったんだけど、そやけど曲作った、その曲をやるためにまた今度はギターがしもべになるというのは、全然なんか気分が良い。曲、ボーカルね。結局は柴山さんやったり、今はルーシー、シーナでもそうやけど、俺、ずっとシーナの歌のラインをギターでずっと弾く。ガーって弾いたら、バーンってしたり、シャラーンってしたり、ガーンって歌ったときには一緒にガーンってくるし。
シーナさんがそこにいるんですね。
そやけん、チャンチャカチャンチャカチャンとかも、チャカチャカチャカチャカとか、リズムボックスに入れたら、チッチッチッチ、あんなもんて、もうしだしたら同じやん。そうじゃなくて、ボーカルは毎日生き物やしさ、ギターも生き物やけどね。それはステージでそのときの出会いのスリルが楽しいと。再現することはそげな喜びじゃない。ただ、再現する喜びももちろんあるけど、この曲がこの曲に、聞こえんやったら困るしね。作った時のことをいつも思いながら、鬼平と明日もやるけど、全部の思い出がひとつの曲のいろんな箇所にみんながそれぞれ浮かびよる。だけん奈良やらも幸せそうな顔しよんよ。
知ってる曲だけど毎回新鮮ですもんね、聴いてる側も。
人の作る曲が多い、サンハウスの曲やら。なんかね、俺たちはブルースを聴きよったから、ブルースマンが歌うようなテーマが、普遍性が良いと思いよった。そしたら50年経っても男と女は普遍よね。そやけど個人の悩みとか、今、無理矢理元気出そうとするだけのガキの歌はさ、もうちょっとブルース聴いて、我慢するところは我慢して、簡単に音を上げんぞっちいう、そういうプライドがある人間であってほしい。ブルースからそういうものをものすごい学べる。なんか弱音をポロっと言うたら良いみたいにさ、「そうだよね」みたいな、あんまり言われんけど。
変わらないけど、すごく素敵な。
大人じゃないとさ、俺たちは背伸びして大人になりよったし、子供のままでおりとうないと思いよったし。ジェスロ・タルが老人の格好してデビューしたって聞いたときはすごい当たり前と思った。ロック好きな奴はガキに見られたくないし、大人からもバカにされたくないし、そんなん俺たちの決めたことを。
あとで年齢聞いてびっくりするぐらい若かったりしますよね。ものすごい大人っぽく見えてたけど。
そうなんよね。ストーンズやら最初それでまいったもん。本当に4つぐらい、4つ5つ上の兄貴なのに、なんでこんなに強そうに見えるというか、悪く見えるし、強く見えるし、動じないように。あれロックの力やったんよね。ブルースを聞いた、少々じゃへこたれんという、もっと俺はつらい目に遭うたじぇって言うて、「あはは」って笑いよるみたいなさ。
これはまたますます明日が楽しみになりました。(翌日がCBでライブ)
うん。喜び。
いやいや、ありがとうございました。長い時間、今日も時間たっぷりいただいて。
ありがとうございます。
ずっと聞いてられますよね。ずっと聞いておきたいぐらいだけど、さすがにね、明日ライブだし。
全然。時間があれば。
もちろん明日は馳せ参じますよ。今回もなかなか充実した内容になりました。ありがとうございます。Play The SONHOUSEは明日で一区切りですか?
いや、12月にもう1本、単発でやりたいねって、いつも抱き合わせでやりよるけ、ちょっとフラストレーションがさ、ちょっと溜まっとるけど。
1月8日まで。
うん。名古屋からオファーが来て、売り込んだら、ぜひPlay The SONHOUSEやってくれって言われて、京都もやらせてもらえるし。
これまた気がついたら終わらなくなるんじゃないですか?
12月に1本、福岡でPlay The SONHOUSEのワンマンはまだやったことないので。「Bassic」でこの間飛び入りしたんよね。
ありましたよね。
あれはあったけど、ファンの人たちに告知してやるライブがないけ、12月に今ちょっと画策して。
ちょうどイブの日に。まさか松永浩(元The Acousticsで深町と一緒に活動していた)までお世話になるとは。
ねえ。まさか一緒にやりよったとは。
本当ですよ。僕、さっきいろいろ話を聞いてて、鮎川さんと一緒に初めてやらせてもらったとき、「カモン」歌わせてもらったんですよね。いやいや本当、それも鮎川さんにとってもそんな思いの強い曲だったんだなというのとか。
それで最初に、今日言うたみたいに作ったカセットは、この鬼平と奈良、松永じゃなくて津和野やったけど。もう同じメンバーでまたやれる。鬼平とまたやれるなんて夢みたい。ここまでいつも出かかっとるけど、俺から引き込むわけにもいかんと思いよったら、鬼平が言うてきたんよ。「マコちゃーん、今度ギター弾いて」とか言われて、「もちろんたい」っちなって。で集まって、なんやるね?って、「サンハウスくさ」っち言うて。もう「爆弾たい」って、バンバンバン!
それがPlay The SONHOUSEのきっかけだったんですね。いやー、鬼平さんもずっと叩いとってほしいですけどね。最後みたいなことを言わっしゃーけど。
みんな嬉しそうにしてくれるけん、俺も本当嬉しい。
(※1)元サンハウスのドラマー、浦田賢一を中心に結成。1978年、CBSソニーからシングル「蒼ざめた夜」でデビュー。翌年にリリースされた2ndシングル「愛は心のフルコース」は、TBS系列のテレビドラマ『熱愛一家・LOVE』の主題歌に起用されたヒット。
(※2)1963年マイク真木らと日本のカレッジフォークを代表するバンド、MFQ(モダン・フォーク・カルテット)を結成。1967年単身渡米、帰国後1976年にトムス・キャビンを設立し、エルビス・コステロ、トム・ウェイツ、トーキングヘッズ、B-52’、ラウンジ・リザーズ、ラモーンズなど数多くのアーティストを日本に招聘している。
(※3)イギリス出身の音楽プロデューサー。ビートルズのプロデューサーであるジョージ・マーティンに認められ、ビートルズの『ホワイト・アルバム』(1968年)にアシスタント・プロデューサーとして携わる。それ以降、プロコル・ハルム、ピンク・フロイド、ロキシー・ミュージック、セックス・ピストルズ、ポール・マッカートニー、プリテンダーズ、エルトン・ジョン、U2、ザ・ストライプスなどのプロデュースを行っている。
(※4)日本の作曲家、音楽プロデューサー。アルファレコード創立者。代表曲には「翼をください」「虹と雪のバラード」などがある。
(※5)シーナ&ザ・ロケッツはエルビス・コステロ&ジ・アトラクションズの初来日公演のオープニングアクトを、1978年11月23日~11月30日、東京・大阪・福岡にて6公演を務めた。
(※6)サンハウス47周年目にオリジナルメンバーである鮎川誠と鬼平、奈良とで結集しツアーを行ったセルフカバー・プロジェクト。鮎川誠 Play The SONHOUSE名義にて 「ASAP」(2枚組ライブCD)も2022年7月に発表した。
(2022年9月30日 福岡市 風街にて)
企画/編集 松尾伸也
制作/インタビュー 深町健二郎
鮎川 誠(あゆかわ まこと)
シーナ&ロケッツ
1948年、福岡県久留米市生まれ。九州大学農学部卒。
「シーナ&ロケッツ」のリーダー、ボーカル・ギタリスト。
1970~1978年、福岡を代表するバンド「サンハウス」のリードギタリスト・コンポーザーとして活動後、1978年よりシーナ&ロケッツを結成。『涙のハイウェイ』でデビュー。『ユーメイ・ドリーム』が大ヒットとなる。エルビス・コステロやラモーンズともライブで共演し、1981年にはアルバム『SHEENA&THE ROKKETS』でアメリカデビューも果たす。
「ロックは生だ。音で勝負!」という鮎川の指針のもと、アリーナクラスから数々のフェス、ライブハウスに至るまで、妥協なきステージングで繰り広げられるライブアクトを中心に活動を続けている。
結成時のオリジナルメンバー奈良敏博(Bass)、川嶋一秀(Drums)を現在も擁し、質・量ともに群を抜いたその活動歴は、ジャンルを越え、日本を代表するロックバンドとしての可能性を独走状態で追求し続けている。
ロックが出来るところならどこにでも行く、どこでもやるというフットワークの軽さは、鮎川が74歳を迎えた今もまったく衰えることはない。
2014年7月に発表したシーナ&ロケッツの18枚目アルバム「ROKKET RIDE」はロング・セールスを記録中。
自身のソロ作としては『クールソロ』(Alfa)、『London Session』シリーズ(Speed Star)がある。
2016年シーナ&ロケッツのシーナとの出会いから、シーナ&ロケッツ結成秘話、これまでの生き方について語ったロングインタビュー番組CROSS FM「HAPPY HOUSE」が、日本放送文化大賞グランプリを受賞。その語りを「シーナの夢」 (西日本新聞社)として書籍化される。
2017年11月には47都道府県ツアーを全県踏破して40周年目に突入した。
2018年3月シーナ&ロケッツ40周年を記念して、鮎川誠選曲・監修の元、41曲が収録されたシーナ&ロケッツのベスト盤「ゴールデン・ベスト EARLY ROKKETS 40+1」「ゴールデン・ベスト VICTOR ROKKETS 40+1」がそれぞれ2枚組でビクターとソニーから発売。
またシーナ&ロケッツの半生を描くドラマをNHK福岡が制作。3月に九州・沖縄限定で放送され話題に。全国からの多くの反響により、早くも5月に全国放送が決定した。
音楽以外では、モデルとして多くのテレビCMや広告に出演するなど、その独特の存在感で多くの人を惹きつける。
俳優としてテレビドラマNHK『ちゅらさん』などに出演。映画では『ジャージの二人』(08年/中村義洋監督)をはじめ多くの出演作も。『ワルボロ』(07年/隅田靖監督)では映画音楽を手がけた。また、音楽・コンピュータへの博識を活かした『DOS/Vブルース』、『60’sロック自伝』『200CDロックンロール』の著書もある。
鮎川誠 シーナ&ロケッツ 最後のワンマンライブ、DVD発売!
昨年11月23日に新宿ロフトで開催されたシーナ&ロケッツ45周年記念ライブがDVDとして発売が決定!
オリジナルメンバーの奈良と川嶋、そして鮎川とシーナの愛娘LUCYをボーカルにアンコールまで全24曲・2時間の熱狂ライブ。病に冒されながらも、最期まで公表せず走り続けた鮎川誠 渾身のラストフルライブ。
45年一切のブランクなくロックンロールし続け、どこまでも真っすぐに貫く鮎川誠の生き様の凝縮をファンに捧ぐ。
鮎川誠の誕生日5月2日にDVD発売!
特典DISCには、鮎川誠の74バースディ・インタビュー・ドキュメンタリー、追悼メッセージ、貴重ライブ&プライベート映像が収録されています。特典DISCには、2015年から2022年までのレアなライブ映像やバックステージ、プライベートの模様や縁あるミュージシャン友人達からの追悼メッセージを2時間半収録。
2023年5月2日の鮎川誠追悼ライブ会場で先行発売。またOffcial SHOPにて、まもなく予約販売となる。
「鮎川誠 LAST LIVE -シーナ&ロケッツ45周年ライブ SHEENA 45 th Birthday Live at LOFT」
特典DISC付
2枚組DVD (4時間30分収録) ¥4,700(税込)