【特別インタビュー】Los Van Van(ロス・バン・バン)/Samuel Formell

間もなく総勢16名フルメンバーでキューバから来日し全国ツアーをおこなうロス・バン・バン。結成50年を超え、2000年にはグラミー賞も受賞、キューバ音楽の王者に長年君臨しているバンドです。この来日に先駆けてキューバに渡った写真家 板垣真理子さんによるリーダーサムエル・フォルメルへのインタビュー記事が届きました。8/27福岡での公演となるイスラデサルサには2005、2006、2010年と3度出演しており、その思い出と共に今回のツアーへの意気込みを語ってくれます。

2023年5月初旬、すでに13年ぶり来日が決定していたキューバの老舗サルサ・バンド、Los Van Vanの現在のリーダー、Samuel Formell(サムエル・フォルメル)氏にハバナの自宅でインタビューすることが出来た。海外でのツアー予定が目白押しの彼ら、うまくキャッチできるか、ドキドキものでの待ち状態から、突然、当日の朝、その日の午後の予定が飛び込んできた。まさにメキシコのツアーからハバナに戻ってこられた翌日だった。当初予定していた通訳さんが捕まらず、「念のため」にストックしていた方に急遽連絡をとり、無事インタビューに臨むことが出来た。

いよいよインタビュースタート!

緑多い郊外のお屋敷、門扉の横のベルを押すとすぐに扉が開き、そして、にこにこと気さくな笑顔のご本人自らが出迎えてくれた。久しぶりとはいえ旧知であった通訳さんとしばし、「今どうしてる?」のよもやま話しも弾み。これまたみずから運んでくれた水を持って登場する姿に動画のカメラを向けると「イエ~イ、日本に行くよ」と満面の笑み。さあ、どこで話しがしたい? と訊かれたので「あの大きなテーブルで」と答えると、「いや、僕は楽器の前がいいなあ」(笑)と、ピアノの前にさっさと座る。そして、実際話しの途中で弾きながら説明したり、リズムをとったりしながらのビビッドな会話が始まった。

_本当に音楽や、楽器をさわることがお好きなのですね?

うん、確かに(笑)
では、すぐに本題入ろう。

_まずバン・バンの命名の由来を教えてください。

バン・バンを作った僕の父、ファン・フォルメルはベーシストで、自分のバンドをつくる以前はオルケスタ・レべというグループにいた。バン・バンをつくったのは1969年だが、それ以前からなにか新しいことをやりたい、と考えていた。父の妻、つまり僕の母は才能あるタップ・ダンサーで、父は彼女と一緒になにかやりたいと考えてもいたのだった。
 まず、自分のバンドの中で実現させた新しいことというのは、電気楽器の導入だった。エレキ・ベース、ピアノ、ギター。このことにより、ひとつの革新が生まれた。しかし、電気楽器の導入と同時にもっと重要だったのは、ハーモニーの変化だった(とピアノを弾いて説明する)。こんなふうにね。

当時、バンドは正式なプロになるためにテストを受ける必要があった(キューバでは、プロになるためには政府によるテストがある)。その頃、バンドはロス・モミスと呼ばれていたんだが、父はこの名前が今一つ気に入らなかった。ちょうどその頃のタイミングであったのが、砂糖黍の収穫だった。もうね、当時は誰もかれも、音楽家もバンドのメンバーも全員が砂糖黍刈りにかりだされたのだよ。
 そこで休憩時間に父は、ピアニストのプピとバンドの名前について話していた。そこで閃いたのが「バン・バン」だったわけ。というのは、当時、1970年、砂糖黍の収穫、1000万トンを目指すキャンペーンが繰り広げられていて、テレビの有名なキャスターであるエバ・ロドリゲスが「De que Van Van」 (必ず達成する、行く、という意味) というフレーズを連呼していた。そう言うとプピが「Ban Banかい?」(モノを叩く音) と訊くので違うよ「Van Van、行け、行け」のほうだよって、ね。

_ということは、バン・バンの名前は砂糖黍畑で生まれたのですか?

うん、夜の、飲んだり食べたりしている時間だよ。
ひとつ、ことわっておきたいのだけど、バン・バンのことを勝手に政権や、フィデルとの関係が密接だったと、言いたがるヤツらもいるけど、それは想像の産物だ。そんなことはまったくなかったんだよ。僕は、父から直接に聞いたことしか話さないからね!

_バンドが出来たばかりのその1970年、すぐに大阪万博に来られていますね。できたてほやほやの新しく若いバンドが、日本の万博という大役を射止められたのは何故ですか?

それは、バン・バンが音の革命を起こし、斬新で才能溢れるグループであることが最初から明らかだったからだよ。
バンドはそれ以降、ものすごく沢山の外国に出かけた。その最初が日本だったわけ。また、このツアーは、バンドにとってひとつの挑戦であり、とても重要な意味を持っていた。何故なら、今までまったく聴いたことのない音を奏で、また言葉も通じない歌を歌うバンドが、観客に受け入れられるかどうか不明だったからだ。しかし、幸いにもその危惧はまったく不要なもので結果は上々。皆とても楽しんでくれた。その上、バンドは日本の新しいテクノロジーにも触れて、素晴らしい影響も受けることが出来たんだよ。これは後にバンドの音を独自のスタイルに革新することに大いに役立った。

_バンドの音の革新について、もう少し教えてください。

この頃、70年代に始まって80~90年代にかけて、世界では新しく斬新な音楽が次々に生まれていた。ひとつはさきほども話したように、電気楽器の導入、そしてハーモニーやメロディーも、また父は新しく「ソンゴ」というリズムも編み出した。
父は、世界じゅうの音楽、たとえば、ファンクやディスコ・ミュージックなど、まったくジャンルの違う音楽からも影響を受けてそこからさまざまなモノを汲み取っていった。そしてまた独自のモノも作り出していった。父の目標は、常に新しいものを創造し続けることだった。そのために、いつも伝統的なモノの上に、新しいなにかを付け加えるやり方だった。伝統的なモノとは、キューバの場合、オルケスタ・レべ、ベニー・モレ、ニコ・サキ―トなどのそういう音楽だ。

かれはいつも、ゴールに達することが重要なのではなく、なにかを作り出した後には、さらに前進することが大切だ考えていた。キューバ音楽の刷新、という点で常にリーダーシップを取っていたが、父はキューバに限らず、カリブ、そして世界の音楽が斬新に変化することを望んでいた。

_大きな哲学のようですね。

そう、父はいつもこう言っていた。「同じ道を進んでいるが、違う船に乗っている」とね。

_ファン・フォルメル氏はベーシストですが、ソンゴを編み出した時、ベースで奏でたのですか?

そう、父は「ベースを歌わせた男」と多くの人に言われるほど、ベースを革新したことでも知られている。ピアノがハーモニーを、パーカッションがリズムを刻むように、ベースは曲のベースなのだ。バックボーンなのだよ。父は自分の曲にアイデンティティを与えるために、ベースの特性を多用したんだ。たとえば「La Candela」の曲では、ベースのメロディが流れると、人々はその次に有名なコーラスが来ることを認識する。

_まるで、コール・&・レスポンスみたい?

その通り!
これは、「質問と答え」のパターンに基づく公式で、Sandungueraという曲の中にも見られる。伝統的な和声パターンを使ってはいるが、父がこの曲のベースに挿入した変革に気づくことが出来る。

_今の話からなのですが、ロス・バン・バンは、楽譜を使っていますか?

使っているとも! キューバの音楽シーンでは、楽譜を使わずに演奏することも多いけど、ね? バン・バンは、グィロとコンガを除いた全ての楽器の楽譜がある。(ただし、実際の演奏中に譜面を立てているのは数名のみ)。グィロはリズム キープなのでどうしても楽譜が必要なわけではないけど、コンガは特別な訓練が必要だ。

たとえば僕は、8年間キューバの芸術学校でクラシックのピアノと打楽器(ドラム含む)を学んだ。しかし、バンドで演奏するには、上手いだけでは十分ではない。バン・バンで演奏するためには、バン・バンのスピリットを知っていないとできないんだよ。バン・バンは、サルサの一部ではあるけど、ソンゴのようにサルサらしくないものもある。

そう、ソンゴだった。このスタイルの産みの親は、父であると同時に、ピアニストのセサル・“プピ”・ペドロソと、パーカッションのホセ・ルイス・“チャンギート”・キンタナの功績も大きい。多くの人は、僕がチャンギートからたくさんのレッスンを受けたと思っているようだが、実際には一回だけ。あとは、ただ、ただ、側にいて覚えたんだ。本当に小さくて幼いころからね。1969年のバンド結成当時、僕はまだ3歳だったけど、それ以来ずっとバン・バンの成長をすべて体験することが出来た。これはものすごく大切なことだよ。バン・バンにメンバーとして参加したのは1993年からだけど、すぐにバンドのメンバーとしてやっていけた。(それ以前、彼はイサック・デルガードのバンドに在籍していた)。

_お父さんの遺した大切なバンドの中で大事にしているもの、またご自身で新たにやろうとしていることは何でしょうか?

父は、常に革新的な事、新しいことを目指していた。ベースにある伝統的なモノを生かしながらね。その姿勢は僕も同様だよ。そして、バンドをやっていく上でとても大切なのは、常に長い間バンドのメンバーをまとめようとしてきたことだよ。バン・バンはメンバーの移り変わりが少ない。他のバンドでは、ねんじゅう変わっているところもあるだろう? それを維持するためには、まるで家族のように、一人一人の意見に耳を傾ける。バンドの創設以来、父は常に芸術的想像のプロセスに、全員を統合する、という哲学を植え付けてきた。それは、僕も同様に目指していることだ。

_バン・バンのバンドをやっていく上でさらに大切にしていることはありますか?

それは、バン・バンの強みの一つなんだが、各時代の社会の変化とキューバ人の動きに注目してきたことだ。言葉の上でも、リズムの上でも、人々が何を求めているかを敏感に察知してきた。歌詞で言えば、たとえば「僕たちはマンゴーではない、マメイなんだ」という歌詞があるんだが。マンゴーと言うのは若々しくて美しいものの事を言う。でも、バンドはもうそんなに若くはない、しかし、マメイもとても美味しい果物であるように、僕たちも誇りを持って自分たちを大切なものとして観ている。こういう歌詞も、巷で言われていることから拾ってきたものだ。
また、「Van Van es cosa golda」という歌詞もあるんだが、ゴルダというのは「太い」という意味と、なにか平均より抜きんでているもの、何かが非常に優れていることも意味する。これは、バン・バンのアイデンティティが、キューバとともにあることを示している。
僕たちの日常や、特異性を音楽を通じて表現し、それを支持し、賞賛してくれる人たちによって自分たちを満たしている。それが、僕たちがこうしてキューバで続けていく理由なんだ。

_今まで、このバンドの50年という歴史の中で、音楽や歌詞の内容が、時代と強くリンクしたことはありますか?

うん、そうだな・・・90年代の始め。キューバがとても大変なことになった時代があったよね? (ソ連の崩壊により、キューバも経済的なダメージを大きく受けて、「スペシャル・ピリオド=ピリオド・エスペシャル」と呼ばれる時代があった)。あの時に、父は「No es Facil」(簡単ではない)という曲を作って歌ったよ。まさにその時代を表すものだった。しかし、ネガティヴなことを歌っているのではなくて、そうであっても前向きに元気にやっていこう、という歌なんだけどね。

_では、今の時代で、なにか作るとしたらどういうものになりますか?

(サムエル氏、そうきたか、というようにニタっと笑い、そうだな、と一呼吸おいて)
ウン、今の時代で、同じように新しい「No es Facil」を作って歌うこともできるよ。そしたら、きっとすごくいいものができるだろうね。でも、今の僕はそうしない。何故なら、今、人々は本当に一生懸命なんだ。だから、楽しいことのほうが大切。なによりもまず、楽しさを大切にしたい。日本にも、楽しさと元気を持って行くから、大いに楽しんでね!

素晴らしい一言で、インタビューは終了した。その後、あらたに、ティエンポさん経由で「イスラ・デ・サルサ」の思い出にまつわる言葉をいただき、それがまたとても面白く、ここに追記していく。

ISLA DE SALSA(イスラ・デ・サルサ)を振り返る

_イスラ・デ・サルサで印象に残ったことや思い出を教えてください。

2005年の福岡への初訪問のことはよく覚えているよ。それ以前、1970年の大阪万博は国際的な協定によるものだった。(サムエル氏は、幼少なので来日していない)
私たちが福岡を訪れたのは2005年が初めてで、とても楽しみにしたし、当時、盛り上がりを見せていたフェスティバル、「ISLA DE SALSA」があることも知っていました。

しかし、島に行く方法が船しかないと聞いても、私たちはそれほど深く考えていなかったのです!
しかし、着いた後は狭い道を走るバスに乗って、竹林を通り過ぎながら、どこに来たのかわからないほどだった。海と自然と音楽を楽しむという提案の魅力が、街を見渡せるビーチに着いた時にようやく理解できたんだよ。会場に溢れるエネルギーで島全体が揺れているようだったな。ヤシの木を見ながら、私たちはまるでキューバにいるかのような気分でした!
その時、私たちはオルケスタ・デ・ラ・ルスと共演し、それは素晴らしい出会いとなりました。(オルケスタ・デ・ラ・ルスは、キューバでもとても有名)。

そして、翌年の2006年、私たちは再び福岡を訪れました。そして驚いたことに、福岡から日本のさまざまな都市に行くだけでなく、韓国にも行きました。東京は常に刺激的な挑戦ですが、福岡における、このひと味違ったフェスティバルが僕たちにとってもすべての始まりであり、またそこからアジアへの橋が架けられていることは非常に興味深いです。

_音楽や演奏する以外でも、思い出がありますか?

あります。
ある日、私たちは福岡の高校で野球をする機会があり、学生や教師と一緒にプレイしました。とても暑かったですが、楽しい時間を過ごしました。このような経験は簡単に得られるものではなく、人々とより直接的な接触ができるため、音楽を通じた繋がりとは異なるものでした。

_その後、とうとうオーストラリアまで行かれましたね!

2010年の3回目のツアーでは、福岡を起点にしてオーストラリアまで行ったのです。ハービー・ハンコックのプロデュースによりNHKの東京ジャズフェスティバルで演奏し、と思えば、一方では福岡のISLA DE SALSAで「水着姿で演奏し!」、そして次にはシドニーのオペラハウスでの公演という流れは、バンドにとって最も強烈な経験のひとつです。25日間に3か国で17回のコンサートを行いました。

_それは凄いです! プライべートな思い出もありますか?

うん、福岡での父(ファン・フォルメル氏、2016年他界)の面白い逸話を思い出します。彼は散歩に出かけたのですが、今のようにGoogleマップなどはなく、道に迷ってしまったのです。彼が見つからないので、私たちは皆で探しに行きました。どうやって見つけたのか覚えていませんが、福岡の暑い町の中、アイスクリームを食べていました。彼が「もう帰れないと思った」と言ったのに、皆は笑わずにはいられませんでした。町の人々は彼を助けようとしたのですが、コミュニケーションが難しかったようです。

_まるで、状況が浮かぶような面白いエピソード、ありがとうございます。
ファン氏がアイスクリームを食べていた、というのがなんともキューバらしくて笑えます。キューバの人たちはアイスクリームが大好きで、しかも、熱帯の国ではうっかりアイスクリームを食べると「お腹に来る」というリスクがあるのですが、キューバ場合は、ほぼ大丈夫なのです。とっても大きなアイスクリームのケースを抱えて、もくもくとたべている姿もよく見ます。これは男女年齢、問わず皆、大好きで、また、ベダード(新市街)の目貫き通りにあるアイスクリーム屋「コッペリア」はとても有名。キューバは、アイスクリームとカクテルは、どこで飲んでも食べても、当たり外れが少ないですね!
最後に、日本の、特に「イスラ・デ・サルサ」にメッセージを下さい。

今は世界中がパンデミックの影響から回復しなければならない時期ですが、間違いなく楽しめるツアーにするよ! 特に思い出いっぱいの場所、福岡を訪れることをとても楽しみにしています。いつも特別な場所ですからね! 皆さんにお会いすることを楽しみにしています! ぜひ、思いっきり、楽しんでくださいね!
Abrazo grande(大きな抱擁を!)

インタビュアー
板垣真理子(写真家・文筆家)
アフリカ、ブラジル、キューバなどをめぐって写真と文章でルポを続ける。キューバには25年前から通い、3年半住む。音楽、踊りをこよなく愛しアーティストとの交流も多い。最新刊「キューバ ハバナ下町歩きとコロナ禍の日々」。

Vivela! Salsa Tour 2023 Los Van Van 公演日程

Saturday, 8/26 Samuel Formell 特別講演「Los Van Van 50年の挑戦」

受講料¥2,000(前売)

Sunday, 8/27(日) 24th Isla de Salsa World Beat Festival (福岡)

Open 12:30 Start 13:00
前売. ¥5,500
チケット販売
チケットぴあ P-code 243-188
ローチケ L-code 81304
e+
ティエンポ館内

Tuesday, 8/29 特別追加公演 Los Van Van at ブルーノート東京

Thursday, 8/31 Vivela! Salsa Tour in Zepp新宿

Open 18:30 Start 19:15
前売. ¥8,000 (+1drink Ticket ¥600要購入)
チケット販売 :
チケットぴあ P-code 242-853
ローチケ L-code 70727
e+

Friday, 9/1 Vivela! Salsa Tour in Nagoya Club Quattro

Open 18:30 Los Van Van Live Start 20:00
前売. ¥7,000 (+1drink Ticket ¥600 要購入)
チケット販売 :
チケットぴあ P-code 242-854
ローチケ L-code 45112
e+

Saturday, 9/2 Vivela! Salsa Tour in Osaka 246 Live House GABU

Open 18:30 Los Van Van Live Start 20:00
前売. ¥7,000 (+1drink Ticket ¥600要購入)
チケット販売 :
チケットぴあ P-code 242-856
ローチケ L-code 56923
e+