【福岡レジェンドロング・インタビュー・シリーズ】街と音楽の記憶 第4回 THE MODS 森山達也、北里晃一
福岡を音楽都市たらしめた先人達の証言を集め検証していくプログラム。
「福岡レジェンド ロングインタビュー・シリーズ“街と音楽の記憶”」
第4回目は、めんたいロックシーンを牽引するバンドの代表格「THE MODS」より、森山達也氏と北里晃一氏にスポットを当てました。2024年11月に刊行されたお二人の共著『Hey! Two Punks The Mods:The Early Days 博多疾風編』には、MODS結成前夜の福博での動向が生々しく綴られ、純粋に音楽を愛する「のぼせもん」たちの生き様が垣間見える傑作となっています。今回のレジェンドインタビューでは、2024年12月4日(水)に福岡トヨタホールスカラエスパシオで行われた発売記念トークイベントでの模様を聞き書き形式でお届けします。
また、2025年1月26日(日)にはキノシネマ天神にて森山達也監督作品『Paradise』の特別上映会も実施予定です。詳細は追って発表予定です。こちらもお見逃しなく!
それでは、たっぷりとご堪能ください。
Welcome back Two Punks!
THE MODS 森山達也さん、北里晃一さんです!
(拍手)
どうも!お客さんも飲んで来てるよね。
さっきもモリヤンと昼飲みしよった。ちょっとやり過ぎたよ。
改めてよろしくお願いします!
森山さん、北里さん、博多はどれくらいぶりなんですか?
二年ちょいぶりかな。
北里さんは?
俺は個人的に色々あったから、しょっちゅう帰って来てました。
今日はここだけの話が盛りだくさん、貴重な時間になると思うので、みなさんよろしくお願いします!
実は先日、東京キネマ倶楽部で、久しぶりにアコースティックセットのライブが行われました。本当に胸が熱くなるシーンも多く、アコースティックセットなので、皆さん座って演奏していたんですが、三回目のアンコールの時は森山さんが立って大騒ぎになりましたね。まずは、そのライブの感想からお願いします。
そうですね。もう声を出すライブが久しぶりだったので、なかなか帰してくれませんでしたね。
みんな、えらい感動してましたよ!
まあ確かに俺が立って歌ったら、ファンもみんなも立ち上がってね。
MCの中で森山さんが、問題無ければ、もしかしたらツアーがまたやれるかもしれんという話がありましたが、実際その後耳の具合はいかがですか?(2022年に突発性難聴を発症)
結局もうそれは慣れるしかないという、お医者さんからもそう言われて。今後悪くならなければ、来年には絶対やりたいなと。
ということは博多もありですか?
勿論。
バンドセットなのか、アコースティックセットなのかはその時次第という。
そうですね。まだリハビリの段階というか、まだ一回やっただけじゃなんとも言えないとこがあるし。まずはアコースティックセットでするのが無難なのかな。
それでも、見たいです。
まあ来年中には。
アコースティックセットのリハーサルは、結構入念にしたんで、モリヤンが挙げてきた候補曲だけでも、四十近くはあったんかな。 結局やれてない曲もいっぱいあるわけで、ぜひそれもやりたいなと思ってるんで。もう一回やるなら、アコースティックセットで回したいなとか。
なるほど。逆に何かグルーヴ感というか、森山さんの歌もドーンと入ってくるし、アコースティックセットも素晴らしいですよね。
まあファンもね、段々年を取って来たから、座って観たいんじゃないかな。それはそれで有りなんじゃないかと。
なるほど。楽しみですね。今回は『Hey! Two Punks The Mods:The Early Days博多疾風編』ということで、博多時代の話満載な本ができました。で、僕は1978年、モッズを初めて観たのは高校生だったんですよ。まさかこうやって一緒に机を並べて話ができるなんて光栄です。
こちらこそ。
その頃の話などがこの中にはたくさん盛り込まれています。実は初回分は完売して、欲しくても買えない人が続出してるんですよ。でも重版が決まりました!
そう!だから12月23日から市場に出回る予定なので、是非とも予約して、俺たちを安心させてください(笑)。
さらに嬉しいお知らせがあって、森山さん、先週の東京のライブの時に、もし売れたら続編があるっていう話がありましたよね。
そう。シンコーミュージックさんの方から、三千部を売り切れたら、次も是非やって欲しいと。
さっき楽屋でお伺いしてたら、まだ博多編でも書ききれてないことがいっぱいあるって。
実はね、こぼれ話がもっともっとある。
まあそのうち、出してもいいかなと。
だから今日は難しいのは、あんまりネタバレになりすぎてもダメだし、とはいえでもちょっとこの話は聞いておきたいというもあるから、まだ読んでない人にとっても今日の話を聞いたら、益々読みたくなるようになればと思うんですよ。
(会場の皆さんに)もう読み切った人もいるよね?
ちょっとびっくりせんやった?
面白かったやろ?
森山さんが前書きで書いてますけど、モッズってかなり硬派なイメージがあるじゃないですか。でも、もう崩れ落ちるくらい、爆笑話てんこ盛りですよ。
あのね、よく考えて。博多でプロになる前のアマチュア時代の話。硬質も硬派も無いよね。金無いし、洋服のショップも無いし。政治にも興味なかったし。ただ単純にもう夜何食おうかなとか、酒飲みたいとか、女にもてたいみたいな時代だから、格好いいことなんて無いよね。当時は。
でもなんかそのさらけ出してる感じが逆に僕はロックを感じましたけどね。
多分モッズに限らず、デビュー前のロックバンドの連中って、みんな同じような感じだったと思うわけ。結局十代の頃に音楽と出会ったりとか。 だから多分そんなミュージシャンが読んでも共感できると思うんだよね。
実際この本を出そうと思ったきっかけは何だったんですか?
苣木(寛之)がソロで夏にツアーをやったりとかしてるのに、ご覧の通りの北里が何も働かんわけ(笑)。
んなことはない。毎日インスタやってるやないですか!あれもう遊びやないよ、俺にとって仕事よ。
だからそのインスタの文章書けるから、ちょっと飲んでて「北里なんかやろうか」って。一番良いのが本。文を書くことが良いかなと思って「やってみたら?」「じゃあやってみようか」ていうのがそもそもの始まりかな。
それぞれが思い出しながら書き始めた感じなんですか?
最初は取り敢えず北里が一人で書き始めて、そしたらベーシストだから、性格が割と几帳面なところがあって、なんかすごい丁寧に書いてたわけよ。あれ、これなんかちょっと違うかなと思って。俺が本当に短い感じで書いて。後、あの本のタッチとかいいんじゃない?みたいな。
その時参考にして、こんなタッチって言われた本がね、何と三谷幸喜なのよ。彼が書いた『オンリー・ミー』だっけ。それもエッセイで、それが面白いわけよ。ショートショートでずっと読み続けられる感じで。ああこれありだなあと思って。割とモリヤンは本の虫で、よく教えてくれるんよね。これ面白いぜ、読んでみんやって。それですごくこの本を書く参考になったちゅうか、助かりましたね。
お二人はめちゃくちゃ文才ありますよね。二日ぐらいで一気に読むほど、途中でやめられなくなりました。
字も大きいから。割と読みやすい。
いやいや、濃厚に詰まってますからね。皆さんには是非読んで欲しいんですけど、本に記載されてない話でちょっとお伺いしたかったのが、そもそも音楽に出会うきっかけは何だったんですか?
俺は兄貴がいるから、同じ部屋だったし、兄貴が受験勉強とかやる時期に、俺はもう半分寝てるんだけど、ラジオを聞いていて。当時の人ってそうなの、ラジオを聞いてた。それで何か同じように聞き始めた。
いくつ上のお兄さんですか?
三つ上で。それでビートルズとかストーンズとか。当時の福岡のFEN(※ Far East Networkの略。当時福岡には米軍基地があり、基地内で流れていたラジオ放送)ってあるよね、全部洋楽のロックがかかるような番組だから、それで好きになったというか。小学校の後半か中一位かそんなもん。
その頃にやられた曲とかありますか?思い出すような曲。
アニマルズの「朝日のあたる家(原題『The House of the Rising Sun』)」って曲があって、めっちゃ暗くて、でも何かめっちゃ残ったんだよね。それでちょっとアニマルズ聞いてみようかなって。勿論ビートルズや、ストーンズの「サティスファクション(原題『(I Can’t Get No) Satisfaction』)」のイントロがかっこいいなーって、何となくそういうのが入ってくる。
全部ブリティッシュ・ビートですね。
そう正にブリティッシュが好きになったね。
キーコさんはどうですか?
俺はね、今でこそこんな革ジャンとか着てるけど、そんな革ジャンとか着るような、全部悪いのはモリヤンの影響なんよ。音楽と出会ったきっかけみたいなのを話すと、小学校四年位の頃かなあ。何かクラスの女子がね、ざわつき始めたわけよ。なんやろうかと思ったらグループサウンズ。沢田研二さん、ジュリーのタイガースとかスパイダースとか。なんかそういうのにみんな女子が浮き足立っとって、えーと思ってこちとらドッジボールとか野球とかしか興味ないけんさ、ちょっとテレビの歌番組見てみたら、エレキでテケテケテケテケしよるわけよ、ああ良いわこういうのって。で、掃除の時間とかにホウキ持ってさ。
やりましたそれ!
やるやろ。俺はどっちかというと長いホウキを使いよったけんさ。その当時からベーシストやったんやなって。そんなのがきっかけで、それからモリヤンと出会ってブリティッシュ・ビートを聞くようになって、時代がパンクになったらいち早くハマるわけよ。
それから自然と好きなジャンルを自分でもやりたいという感じになっていったんですね。
始まりは兄貴のそのラジオと、俺の周りのそんなに数はいなかったけど、ロックが好きなお金持ちの友達とかはレコードを持ってるわけよ。買えないじゃん当時はなかなか。でそれを借りたりして、それも殆どビートルズかストーンズみたいな。そっから掘り下げていったというか、ビートルズがカバーしとったそのオリジナルを聞いてみたりとか。そうするうちに面白くなっていったって感じかなあ。
そしてこの本にも出て来る、1974年に森山さんがまず「開戦前夜」という、バンドというより二人組のユニットを結成しますよね?
そう。まあ本当はドラムがいたわけよ。ベースの浅田(孟。後に「シーナ&ザ・ロケッツ」に加入、以下「シナロケ」)の家で練習してたんだけど、ドラムは人の家で練習してたら怒られるよね。音デカいし、どうしようか、もうドラム無しにしようかみたいな。それでまあ二人でとりあえずやろうと。だからもうデビューする気は当時さらさら無かったし、それに絡んだいわゆるミュージシャンとは呼べないかもしれないけど、真似事っていうのがきっかけになったね。
それを入れたら森山さん活動50周年ですよ。デビューする気はさらさら無かったとおっしゃるけど、ライブ喫茶「照和」のオーディションに行くわけですよね。
そこはね、本を読んでほしい。
開戦前夜ではどんな曲をしてましたか?
例えば洋楽のクリーム。めちゃくちゃ上手い人たちの集まり。それをベースとアコギでどうやってやるか。そういうことをやってた。オリジナル作ったり、あと丁度ね、フォークが当時盛り上がってたわけ。スケベ心じゃないけど、だから当然こっちも若いしさ、客も入れたいじゃないですか。ちょっとフォークもやってみようとか、取り敢えず受けそうなものは何でもしたと思う。いい思い出ですよ。
森山さんと浅田さんは警固中の同級生ですよね。警固中すごいなと思ったのは、一学年上に山部(山部善次郎)さんがいるんですよね。そしてさらに上には、フェイセズに入った山内テツさん、後にフリーのベーシストになる。日本人がイギリスのバンドに入るなんて滅多にない話だったのに、そんな人もいるし、チューリップの姫野(達也)さんも警固中らしいですよ。
なんかそれ聞いたことあるね。
そんな中学校ってなかなかないですよ。
そうやね。
ちなみにキーコさんはどこ中ですか?
俺はね、当仁中。地行のあたり。
森山さんみたいに周りに音楽やる環境ていうのはあったんですか?
いやまぁ、しけたとこやったね。
でも田舎じゃないですよ。
まあ中央区のはずれやけどね。
それで、今度は森山さんがMOZZを結成されて(※いわゆる第一期モッズ)、これがまたドラムが川嶋さん(一秀。後にシナロケ)にギターが白浜さん(久。後にARB)です。これはちゃんとバンドとしての形態ができたと。
やっとバンドというかね。本に書いたけど、個性がみんな強い。
もうブリティッシュ・ビートな感じですか?
えっとね、中学三年か高一の時に『ウッドストック』(※1969年8月にアメリカで開催された大規模な野外ロック・フェスティバル。翌年に映画化)という。
1969年に開催されて、映画公開が1970年かな。
映画が来たわけよ。それを観に行って、初めて動くザ・フーとかを見てしまったわけよ。
だって当時はテレビでMTVとか勿論無いし、滅多に見れなかったですもんね。
それに衝撃を受けて、映画をカメラで撮ってさ。
わかります(深町も小学四年の時、ビートルズの映画をこっそり撮った)。
それでフーやろうかみたいなのが始まりやったかな。
なるほど。伝説のステージでしたよね。
そうそう。生じゃないけど動くミュージシャンを観れたのはすごいよかったね。
早速カバーしたりとか。
やったね。
だからモッズだった。(「モッズ」とは、元々60年代にイギリスで起きた若者のモッズ・ムーブメントのこと。アメリカの黒人音楽であるR&Bやジャズを好んで聴き、ファッションも細身の黒いスーツを着ていた)
そう。それから時代を遡ってモッズっぽくやろうかって。
80’s FACTORYに貼られたライブ告知用のポスター。モッズ・ムーブメントの影響がわかる。1980年頃。
なるほど。それでそのまま行くかと思いきやメンバーがなかなか定まらない時に、キーコさんと出会うんですよね。もうキーコさんはMOZZを知ってたんですか。
大ファンでした。一回も欠かさず、は嘘だけどほとんど観てましたね。
ご自身もバンドやってたんですか。
その頃、シューティング・スターっていうダサいバンドやってました。そこには陣内(孝則)もね、ボーカルにおったけど。
それからどうやってお二人は一緒にやろうということになったんですか?
ライブやる時にいつもその辺におるわけよ。この目つきで(笑)。
怖いんですよ、キーコさん。眼光鋭いというか。
それで俺も覚えてたというか。そしたらライブ終わった後の打ち上げにもいるわけよ。
お邪魔虫やけど、しれっと飲んでました。
ベースやってますみたいな。それでまず覚えてたというか、一回ライブ観に行ったこともあったし、MOZZが約一年位で解散したから、その時に当時のマネージャーに誰かベースおらん?って。そういえばあの目つきの悪いやつベースやったよね、みたいな。それでちょっと声かけてみようかと。
そのくだりも本に出てくるんですよね。簡単には入らない。キーコさんが勘違いしたというか。
ああ、その話も本に書いてあるんで。
この本で初めて知ったのが、お二人とも箱バン(お客さん相手に生演奏する店付きのバンド)経験があるんですよね。これにはちょっとびっくりしました。
いわゆる人間がプレイして踊らせるといういわゆるディスコとかの箱バン。後半の方は、DJが出だしたよね。バンド使うと金もかかるだろうし、世の中がそうやって箱バン自体が少なくなったよね。俺とか北里が最後じゃないかなあ。
キーコさんもやってましたもんね。
俺らが最後の世代だと思うね。
それは勿論何かお客さんのリクエストに応えなきゃいけないとか、やりたくない曲もあったりとか、ちゃんと聞いてもくれないみたいな、中々過酷な環境だったと思うんですけれど、ただ今にして思うのは、そうやって鍛えられていくミュージシャンってあの時代、めちゃくちゃいませんでしたか。サンハウスも結構そういうイメージじゃないですか。
あの頃は割とみんなそれが普通だったよね。
ビートルズのハンブルク時代じゃないけど、毎晩毎晩何ステージもこなして、それでみんなどんどん上手くなっていくみたいな。そういう時代でもあったんですか。
割と多かったね。
多いね。ぶっちゃけた話、箱バンって割とギャラが良いんよ。ミュージシャンって良い楽器が欲しいじゃないすか。フェンダーやギブソンとか。そういうのは普通のバイトじゃなかなか手が届く金額じゃないからね。
俺の箱バンは安かったね。北里のところは逆に酷いから高かったんじゃない?
モリヤンがやる店はまだディスコみたいな結構洋楽チックなものもやってたみたいだけど、俺のとこはキャバレーのド箱バンだから、演歌とかスタンダードみたいなね。もう本当にそれこそしけた、場末のね。
でも森山さんもね、びっくりしたけど(大分の)杉乃井パレスとか。えー!みたいな。
いやこれもバレるから読んでいただいて(笑)。
読んでください是非。で、お二人にも関係性の深い初代サンハウスのドラマーである浦田(賢一)さんが、『ROLL(正式表記『ROLL 博多のぼせ バンドマン グラフィティ』)という自伝本で、サンハウスが途中からオリジナルとかブルースをやりだして、出る店出る店を全部潰していったみたいな話もあったりして、ちょっと面白かったんですけれど。博多のバンドマンの縦社会みたいなのがあって、浦田さんというのはお二人にとって超先輩じゃないですか?
まああのー、サンハウスっていうのが、地元ではヒーローじゃないけど憧れのバンドのひとつだったし、外タレなんて殆ど福岡に来なかったしね。その頃は。で身近にね、ちゃんとかっこいいバンドがいるという。
やっぱり影響は受けましたか?
勿論受けてたし、ライブはしょっちゅう観に行ってた。その中で浦田さんはオリジナルのドラムの人だから、性格もあるけどちょっと怖いよね。
面白いけど怖いですもんね(笑)。
俺は初めてモリヤンから「北里、今日浦田さんのとこ連れて行くばい」って言われて、その時は浦田さんっていう名前じゃなくて石岡さんって言ってたから「石岡さんのとこ連れて行くばい」「えー」って何となく行きたくないんやけど、まあ付き合いで。俺その頃、先のとんがった靴を履いとって、こんな靴で行って失礼にならんやろうか、みたいなね。でもう入口開けたら直立不動で「失礼します!」もうそれほど縦社会は厳しかったです。
しかも森山さんは浦田さんのバンドに問答無用でボーカリストになる。
問答無用でね。
すごい話ですけれど、入ったんですね。
丁度MOZZが終わって、もう少し歌が上手くなりたいなあと思ってたのは事実で、それで浦田さんと白井兄弟、白井てっちゃん(哲哉)ととしちゃん(俊哉)。
しらいんがたの。(渡辺通にある「音処しらいんがた」)
でまあ箱バンやったんだけど、俺にとってはすごいそれが勉強になって、成長できた最初だったのかなと。結構大変だったけど今となっては、やってよかったな、と思いますね。
先輩の背中を見るような。
その時のモリヤンの歌うキーは、いわゆる声域のことなんだけど、AだったのがCに上がった。キーが上がるのはすごいことなんよ。
オリジナルをオリジナルのキーで歌えお前!みたいな。出るわけないやんって。自分のキーもあるし、でも取り敢えず頑張ったら段々AがBになって、Cになって。でもすぐAに戻ったけどね(笑)。
話聞いたらね、箱バンって一日に何ステージもやるわけ。その合間の休憩時間は壁に向かって「あー!」っていう発声練習をずっとよ。それもモリヤンだけがやらされてるわけじゃなくて、白井哲哉さんも俊哉さんもメトロノームの前でカチッカチッカチッっていう。
まあ基本も大事ですしね。浦田さんのスティックがよう後ろから飛んで来たっていう話を聞いたことがあります。
飛んできたというより、刺されてましたね(笑)。
まあ今となってはそんなことがあったからこそみたいな、ところもあるんですよね。
良い経験だったと思うね。
当たり前のように思ってしまってましたけど、当時何がすごかったかというと、プロになったサンハウスが博多にいたことによって、みんなオリジナルをやってましたよね。モッズもオリジナルやったし、ロッカーズにしてもそうだし、もうみんな当たり前のように、CDもまだ全然無い時代で、何だったらカセットも全然売ってなかったですよね。
そうだね。
僕はね、あの頃モッズの曲がめちゃくちゃ好きだったから、なんか欲しいんですよ。モッズのデモテープみたいなやつとか、ダビングのダビングの孫みたいなテープをダビングして、聞いてたり、ライブハウスで生録されたようなテープが出回ったりとか。あれ、何で売ったりしてなかったんですか。そんな時代じゃなかったんですかね。
そんな時代じゃなかったよね。
まだインディーズシーンなんていう言葉のかけらも無い時代で、そんな販路もできてないし。
その頃も良い曲がいっぱいあって、しかも未だ世に出てない名曲がいっぱいありますもんね。僕に言わせれば。
まあ何曲かはあるとは思うけど。まあ、解散するまでには出してもいいかなあ。
是非お願いします!後に「めんたいロック」といわれるようなシーンがこの後できて来るんですよね。サンハウスに始まり、今度はブリティッシュ・ビートに特化したようなモッズがでてきて、今思うと“この場所にしかない音楽”というのは、後にも先にもあの時代の博多にしか無かったんじゃないかなと思うんです。だってあの時代って、洋楽ではアメリカン・ロックとかハード・ロックが一般的には流行っていて、博多のパンク・シーンは全然違うじゃないですか。ブリティッシュ・ビートやパブ・ロックとかに行く人たちがめちゃくちゃ多くて、博多だけ何故そうなったんですかね?
雑誌『Blue Jug』1982年7月号より
いやー、そう聞かれても俺もね。わかるわけないよ。
ひとつ言えるのは、まだ情報が無い時代だったから、勿論ネットも無いし、ロック系な番組とかも無い。
だから自分たちが好きなことに対しては、もうそれを深くやっていく。バンドだって流行りじゃなくてね。東京で何が流行ってるかはあんまり関係ない。それがたまたま、サンハウスの人たちとかブロークダウン・エンジンとかがいて、そういう人たちがオリジナルを作って演っていてバンドそのものがブリティッシュ系なバンドが多かったから、自然と俺たちもそこに行ったから。自然の流れなんだよね。
ヤードバーズとか買えるレコード屋がなかなか無いんですよね。だけんジュークレコードに行って探して買ってみたいな。それでいうと博多のバンドマンにとってジュークの存在は大きかったですよね。
んー、大きかったと思うね。あそこに行ったら良いレコードに出会えるけん。まあ松本康さんがいて、もう亡くなんしゃったけど、あの人のお眼鏡にかなったレコードに外れ無いと思って買ってたし。
ジュークだけに音楽“塾”のような。
それと山部さんとかは、日本楽器(当時、福岡ビルの一階にあった楽器、レコード店)に行ってサンハウスの人に「どれ聞いたらいいですか」とか。そういったやっぱり縦の流れで。
良い意味での縦社会というか、ありましたよね。情報が無いだけに先輩から教えてもらっていた。
ロックンロール・ハイスクールじゃないけど、放課後はロックンロール!福岡は。
森山さんはモッズで「ヒストリー・オブ・ブリティッシュ・ビート」というイベントをやって、自分たちだけやなくて、ロッカーズやその時の新しいバンド、セブンティーンには苣木さんがいて、後にモダンドールズからモッズに入りますけど。そういうバンドを集めたイベントをやって、それまでフォークのイメージが強かった照和からまた新しい動きで色々と影響を与えたんじゃないですか?
やっぱり気に入ったバンドを、どうにかして人前に少しでも出してやりたいし、そうなったらいいよなあという感じで、バンド集めて照和のチーフに頼み込んで始まった。
実は森山さんって箱バンを別としたら唯一のバイトを春日原のレコードショップでやられてますよね?
「ディスクジャック」というレコード屋があって、そこで一時期ずっとバイトしてたね。
それもあれですか、ネタ探しというか。
音楽をタダで聞けるという言い方はおかしいけど、それはすごいよかったね。お客さんがいない時は、毎日好きなものを聞いてたし、新譜もいち早く入るやん。 結局そういうことしてたけん給料日に金払ってたよ。バイト代以上に買うから(笑)。
この話だけちょっと、みんなにも教えてあげませんか。レコードショップで働いていた時のお客さんとのやり取り(笑)。
あれか、あれは小ネタだからね。ほぼ本筋とは関係無いから。今日も会場に来とるっちゃないかなあ?そいつが、後輩なんだけど、モリヤンがバイトしてたそのレコードショップに行って、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」って大ヒット曲があるやろ。それを買いに来たわけ。「すみません、太田裕美さんの『木綿のハンカチーフ』ってありますか」って聞いたら、一言。モリヤンが「そげんとは無か」って(笑)。
後でモリヤンに聞いたんよ。本当に無かったと?って。そしたらようと探したらあったって。そりゃあるよね。大ヒット曲なんだから。でもね、それには後日談があって、俺たちに女性マネージャーがおって、その子の結婚式に二人で出席したんよ。そしたらなんと隣の席に太田裕美さんがおった(笑)。
(笑)。すごい偶然ですね。
ずっと下向いたまま目合わせきらんやった(笑)。
1970年代後半になると、イギリスではパンクムーブメントが起こりますよね。ところが日本では意外に影響を受ける人たちがまだ少ない中、博多がいち早かったというか、山部さんも田舎者からすぐドリルみたいな変遷があったり、森山さんもキーコさんも当時パンクに関しては洗礼を受けたりとかはありますか。
勿論そうね。その前に丁度パブ・ロックというね。そういう波がイギリスの方で生まれて、ドクター・フィールグッドっていうバンドがね、俺たちと一緒なわけよ。細身のタイ付けて、ルックスがね。なん博多のバンドみたいやん、みたいな。見ると「Route 66」(ローリング・ストーンズもカバーしており、8ビートを得意とするバンドの定番的ナンバー)とかやってるし、イギリスと俺たち変わらんね、みたいな。そんな意味ではやっぱ俺たち間違っとらんばいみたいな感じで。その後にパンクというか、来るわけよ。最初はよくわからんっちゃん。写真と洋書だけ。 そうしよううちに音楽というより文化としてね。「プレイボーイ」とかああいう雑誌で、今イギリスのロンドンではパンクがどうのって、それで俺たちも絶対いつか聞かないかんばいみたいな感じで、まあのめり込んでいったっていう感じやね。
もう明らかに色々変わりましたよね。ロン毛・ベルボトムのファッションから、ガラッと。そんな状況と連動した話が本にもいっぱいあって、結構やんちゃしてますよね。
いやもう、やんちゃっていうより、もうそういう風にならざるを得ないというかね。
面白いのは、お二人基本バイト全然してないですよね。
正式のバイトっていうか、それは無いよね。だって正式な一週間に毎日来いって言われたらさ、バンドできんくなるよね。
だからバンドマンやってるみたいなところもあるでしょうしね。
そう。
しょうがない。僕たち就職もしたことないもん。いわゆる、そういった給料も勿論もらったことないし、それでモリヤンから聞いたことがあるんやけど、一度だけオフィス・ラヴっていうのをしたかったっていう。
森山さん、あるんですか!?
いやもう、例えば博多で言うと、岩田屋とかあるやん。で、あそこ入ったら、すごくいい匂いがするんよ。化粧品なんかの。
ラジオのサテライトスタジオもありましたね。
俺煙草吸ってたから、その喫煙所みたいなとこに行くと、いっぱいいるわけよ、社員の人が。男の人も女の人も。何か、こういうところから恋が生まれることもあるよねー。俺考えたら就職したことないから、そういうオフィス・ラヴ的なことって無いよねーって。
そんな話は本にまったく出てこないですよね?
忘れてました(笑)。
とはいえお金無いのに基本、酒と焼き鳥の日々ですよね。
よく食ったよね。
雑誌『Blue Jug』1979年8月号より
まあね、昨日も酒場に行きましたけどね、早速。
もう歌じゃないけど、ポケットの中に小銭しか入ってない中で、でも行くみたいな。
そう。そこら辺を二人で本に書いてるから言えないんだけど、昨日改めて確信したな。バラとシロ。これが俺たちにとってのソウルフード!この二本さえあれば俺は生きていける。ずーっと。
東京には無かでしょ?
無か。
やっぱ福岡の人うらやましかーと思うもん。食生活に関しては。
東京には無いですよ。この際、もう福岡に戻って来ませんか?もう今更良いっちゃないすか東京じゃなくても。モッズ聞きたいなら見に来いって、モッズ好きなら、博多に!(会場がざわつく)
確かに今ね、パソコンとかがあるから、できないことはないとは思うよね。考えてみます。
絶対良いと思います。また新しい音楽シーンがここから生まれるかもしれない。
ただ、段々と天神が変わってきたし、俺たちが行きつけてた店もみんな潰れたり閉めたりしてさ、そこはちょっと寂しいね。
やけん変わらんでほしいもんもあるんですよ。それが博多やったら、森山さんも大好きな「小金ちゃん」とか。
「小金ちゃん」もね。もう並んでんだよね。最近食えてない。
もうずーっと座ったためしがない。
本当もう入れないです。地元の人たちも。 まあしかしパンク・シーンと相まって、もう本当にお二人は映画『さらば青春の光(原題『Quadrophenia』)』とか『トレインスポッティング(原題『Trainspotting』)」みたいなことを地で行くような日々があるわけですよ。本当、博多ってさっき言ったように「めんたいロック」みたいなシーンがあって、その後に独特の音楽が生まれたんですけれど、例えばイギリスで言えばリバプール、ビートルズだったりマージ―・ビートや、マンチェスターにはマッドチェスターがあるように。博多もそげん大きくない街やけど、リバプールだって五十万人位の都市だし、マンチェスターもそんなに大きくない。でもやっぱりそういう独特の音楽が生まれたりしてますから、互いに共通する何かがある。だから僕も博多っていうのは、そういう意味では森山さんがさっき仰ったみたいに、変わらない精神を持ってる若い人たちがギュッと集まってロックしてたという時代が面白いですよね。東京じゃなかなか無かったでしょ?
東京って難しいのが、東京っぽさって何?みたいな。やっぱり地方の方がかっこいいとか、多分わかりやすい。東京って難しいよね。
特色が無いもんね。何でもありっちゃ何でもありていうか。
流行ってるものが一番みたいなね。
ファッションにしても よく思う。東京は画一化されてる。どこか博多の人は独自のファッション性を持ってたりして。ああ何か違うんだなあって。
今の福岡にも感じますか?
最近はちょっとわからないけど、何年か前は如実にあった。
個性がある街って良いですね。
俺は好き。俺たちの頃も変わらないアイデンティティなんよね。博多弁って。
みんな博多弁。
ただマイク持ったりすると、東京弁喋ってみようかなみたいな。
デビューした頃、取材を受けるやん。で、どうしても俺が行くことになるのよ。で、最初は東京弁とかわからんし、全部博多弁で喋ってたら、そのインタビュアーの人が「え?」みたいな。
何言ってるかわからない。
そう。それでちょっと困って、また言い直すしかないし、最終的には敬語になるんよ。それは何とかです。とか何とかしました。みたいな、だから高倉健みたいになっていって。そこがなんかちょっと東京弁じゃない、そういうもう少しくだけた敬語というか、考えらないかんみたいなことは大変やったよね、その頃は。
東京のモッズにも博多っぽさはすごい残ってましたけどね。
逆にステージでのモリヤンの「ご機嫌ですか」ていうのは丁寧語だよね。「ご機嫌かーい」とか言わないもんね。割と質実剛健みたいな、俺は好きなんだけどね。スカッと。
その寡黙な雰囲気もある中で、でもまた色んなキャラクターが博多から破天荒な人がいっぱい出てきて、この本にも何回か出てくる山部善次郎さんね。山善。山部さんも森山さんと近しいというか、そういう関係性ではありますよね。僕初めて見たストリートミュージシャンは山部さんです。あの1970年代にストリートで歌ってましたからね。ビックリしましたもん。
当時ロックを好きというか、やってる人で山善知らない人はいなかったやろうね、多分。
森山さんとの交流も色々ありますよね。
だって中学校の先輩だからね。
やっぱり見てましたか。山部さんのパフォーマンスとか。
もうその前に体育祭があった時、山善が応援団長をやって、何かもうすごい目立ってて「うわ、あのチーム楽しそうやねー」みたいなさ。学校ではもうちょっとした名物男というか、個性はあったね。
山部さんとのエピソードたくさんありますよね。
あるよ。俺、東京でホテルに泊まってたら、フロントから電話があって、ジャックっていう人が森山さんと連絡取りたいって言ってますって「え、ジャックなんて俺知らねー」と思って「あ、ひょっとしたら、短髪でサングラスつけて、大きい眼帯みたいなものしてますか?」って聞いたら「あ、そうです」「あ~わかりました。今から降りて行きますんで」って。
その頃の山善のキャッチコピーが「命知らずの恥知らず」やもんね。そのキャッチコピー聞いただけでもわかる、人となりがね。
で、いよいよ1978年に「Lモーション」(九州地区のアマチュアミュージシャンを対象としたヤマハのコンテスト)で優勝するんですよね。モッズが。
そうですね。その「Lモーション」で優勝する前のくだりが面白いというかね。是非そこは読んでほしい。
審査員は鮎川さんですよね。本にも出てくるけど、森山さんが「どうして僕らは優勝できたんですか?」と聞いたら鮎川さんらしいナイスな返しというか、かっこいいですもんね。 痺れましたけれど。鮎川さんらしいね。「Lモーション」で優勝して、何だったらデビューの話にはならなかったんですか?
無かったよね。
無かった。俺もね、レコード出すとか、そういう電話はモリヤンが受けてる話だったから。
無かったと思うね。
あれはあれですごいことやなあって。
無かったと思うね。
ちなみに「熱いキッス」っていう曲で優勝したんだけど、良い曲だったから話が来てもおかしくは無いんだけど。
それこそ賞品がシンセサイザーで、それを売ったお金で、また焼き鳥に行けたと。
たいてい、そうです。
というか、なかなか一筋縄ではいかん、簡単にはデビューせんぞと。そうこうしてると今は無きですけれど、長浜公園横の「80’sファクトリー」(福岡に初めて出来た本格的ライブハウス。1979年8月に開業し1982年3月末に閉店)。これはちょっとめんたいシーンでは聖地化したところですけれど、そこをある意味モッズは根城にして。
あの店ができてすごい良かったのが、まずスタンディングでできる会場が無かった。
モッズが初めてって聞いてますよ。スタンディングという概念が盛り込まれたライブっていうのは。
まあそんな時代じゃなかったのと、そういう会場ができたのはすごい俺たちにとって、ああここかっこいいな。そういうのはあって、エミちゃん(80’sの店長)もねすごい男っ気のある人ですから、すごい俺たちのことも気に入ってくれたし、本当感謝してるね。
80’s FACTORYのチケット。メジャーデビュー直前のライヴ(1981年5月31日)。元永直人所有。
そこで何度もモッズ観させてもらいましたし、最後のライブは動員記録を塗り替えたと。
そうらしいね。
あれだけの短い期間しか存在しなかったっていうのはもったいないですね。
もったいないよね。
あとあれですよね。石井岳龍監督の映画『狂い咲きサンダーロード』(1980年公開)のサウンドトラックへの参加。あの頃って、実はモッズとしては解散状態だったんだけども、それがひとつきっかけとなって、その後のデビュー時のメンバーに繋がるきっかけが出来たと聞いてますけれども。
あれが苣木と梶浦(雅裕)の最初の音出し。
そうそう。音出したというか、デモを作った。
あれが東京の音楽関係者に出回ったみたいで、それでモッズが博多におるぞと。
そうやったみたいよ。
ということになってますよね。私事ですが、昨年「福岡音楽映画祭」というのを企画しまして、その時に『狂い咲きサンダーロード』を再映して、石井監督にも来てもらって、森山さんからもコメントを頂いて、これ改めて紹介させてもらいますが、「この時代にこんなロックな作品を生み出した石井岳龍監督に感謝したい。そしてそのサントラを任された俺達の音源が東京で出回り、それがキッカケで今のTHE MODSがある。このロックな絵と音を感じて欲しい」というね。
今日の入場時に会場内で流した「サンセットストリップ」はその時のサウンドトラック。
映画『狂い咲きサンダーロード』サントラ参加時に録音した楽曲を収録したカセットテープ(おそらくマスターからのダビング)。このテープが東京で出回り、プロデビューのきっかけとなりました。クレジットはメンバー直筆のもの。
それと、TVKの「ファイティング80’s」(テレビ神奈川で放送されていた視聴者参加スタイルの公開録画番組)に、まだデビュー前なのに毎週のように出てましたよね。
そう。レギュラーというかね。まだアマチュアというか、あれも助かったというか、TVKに住友(利行)さんというディレクターの方がいて、その人が当時の事務所の社長と知り合いで「面白いバンドがいるんだよー」みたいな感じでプロモーションしてくれて、じゃあレギュラー行ってみる?みたいな感じで。
プロしか大体出てなかったですよ。
そうそう。司会が宇崎竜童さん。宇崎さんもすごい色々話してくれて、なんか良い人だったよね。
そうだね。リッケンバッカーのギター貸してくれたり、これ使ったらいいよーって。あれ返したの?
返してますよ。それは返した。
いやいや心配になるよね。借りパクするから。
さすがに返しましたよ。
でもこの本が面白いのは、みなさんが知ってるモッズの楽曲などの伏線回収ができます。あ、これがそうであの歌なんだって。『Two Punks』の中にもひとつの実話のような話があって、デビューに近い話が来るけど、流れるみたいな。
そう。それも大事なところだから喋れないけど、何だかんだね、行けそうで行けないみたいな。行きたくない会社もあったし。
1980年7月11日「Jumping Jam 80」でのライブ風景。福岡少年科学文化会館にて。
そうそうそう。赤裸々にね。本の中には書いてありますから、是非そこはしっかり。あっという間に時間は過ぎますね。本当にまだまだ聞きたいことはあるんですけれど、改めてこの本の巻頭にもあるんですけど、鮎川誠さん、そしてシーナさん、ジュークレコードの松本康さん、そしてレノンの甲斐田寛さん、EPICソニーの片桐博文さんに捧げます、というメッセージがありますけれど、やっぱり鮎川さんとかシーナさんは森山さんにとって大きな存在だったんですか。
やっぱり地元のミュージシャンの先輩という意味では、リスペクトですね。 最初のモッズのドラムとベースがシナロケに入ったりというのもあるけど、気になるバンドだったし。だって一番最初に博多にシナロケが帰って来た時、俺と北里でポスター貼ったからね。
えー!そうなんですか。
真夜中。ところがもう早く終わらせたいけん、人の家の壁とかに貼ってめちゃくちゃ苦情が来た(笑)。
シーナさんとはどうですか。
もう本でも書いてるけど、まあお母さんじゃないけど。
すごいフランクな人でね。
ちょっとお姉さん的なね、感じですよね。
そうそうそんな感じ、面倒見が良いね。
だからそうやってモッズにも関わった人たちが亡くなってしまって残念な気がするんですけれど、なんかこうやって我々がまた話したり、受け継がないといけないというね。
「捧げます」というのは、まあなんか本当に面と向かって「ありがとうございます」なんて言ったこと無いから俺たちはね、その四人に対して。だからこんな機会だから「ここに捧げます」で記しておくのはものすごく大事なことだろうと思う。ちょっとマジな話で。
だから本当に『Hey! Two Punks』は、なんかドラマとか映画にでもなりそうな。
誰か金持ってるスポンサーいませんかね?クドカン(宮藤官九郎)口説いて。
クドカンは帯でメッセージもくれてますし。
それかクラウドファンディングでも。
改めてモッズの博多時代の物語を知ることができて、めちゃくちゃ嬉しいですね。そういうものも下手したら、どんどん忘れられていく話だったりするんですよ。
まずこの本を書く時に、飲みながらその会話をしてたわけ。で「あの時こうだったよね」とかエピソードを考える時に、でも二人とも年齢もあるけど、殆どのことが、お酒飲んでるからね、だから記憶が曖昧なことがいっぱいあるわけよ。だからこのままやと思い出せんごとなるばい。あと何年かしたら。だけん今のうち書いとかなヤバいねってこともあったね。
良かった。
何とか間に合ってよかった。それもきれいに思い出せるわけじゃないから、記憶の断片を二人で話し合うと何となく一本の線と繋がるというか「そうだったそうだった」みたいに、そっから先は絵が浮かぶくらいもうバッチリ。
ここから先はですね、それぞれ お二人が影響を受けたいわゆる音楽を紹介するコーナーがあるんですが、今日はちょっと特別にですね、お二人のいわゆる青春期というか、音楽にはまった時にどういうものを聞いてたかを、それぞれリストアップしてもらったんですよ。なので早速、北里セレクションから行きましょうか。四曲ありますよ。
お願いします。
先ずはエアロスミスですね。「ママ・キン(原題『Mama Kin』)」。
これは1977年の2月なんよ。いわゆるハード・ロックなんか本当は俺らは好きじゃない。長いギターソロで、全然好きにならんやった。当時、モリヤンを九電記念体育館に無理矢理連れて行って、そしたら気に入ってくれたけん。
覚えてますか。森山さん。
覚えてます。この曲は良いねと思って。でも衣装がなぁって。でも後半、エアロスミスすげえバンドだったんだなあと思ったし、頭の骨折でツアー引退だと、最近聞いたときは本当悲しかったね。もったいないというか、すごいシンガーよね。
キーコさん、ちょっと意外でしたね。エアロスミスから。
いや高校生の頃フェイバリットなバンドだったんよ。ただ1977年やないですか。もうセックス・ピストルズが登場するわけですよ、(パンクが出て来たことで)一気に嫌いになりました(笑)。
なるほど。じゃあ次の曲に行きましょうか。言わずと知れたキャロルですよ。しかも「ルイジアンナ」。なんか初期のビートルズとかも繋がってくるビートですよね。
本当ね。もうこの頃のキャロル、最高だよね。かっこいい。
しかも永ちゃんのベースも。
ロックンロールやね。
長く愛されたバンドですよね。
この頃のスタッフの一人が俺たちの最初の事務所の社長。
結局そこ繋がっていくんですよね。
一回だけ永ちゃんを見たんよ。「無法者の詩」ていう曲のプロモーションビデオを撮りに行くために アメリカ大使館にさ、あの頃ビザ取りに行かないかんやん。ビザに並んでたら、なんか白いスーツの人が係員と揉めとうんよ。「あの、俺さL.A.に家があるんだよな」でも係員はだから何?みたいな話で。俺は、あれ永ちゃんやない?と思って。背がスラっと高くて白いスーツでこんなハットも被ってたと思うけどさ、もうモリヤン後ろに並んどって「モリヤン!モリヤン!永ちゃんやん!」って言うたら、ずかずかずかって来て「言うな貴様!」って。
人を指差したらダメやん!って(笑)。
それでさ、ビザがみんな一週間以上のが取れたんよ。で、俺だけ二日間。
なんでですか。
あのね。銀行預金。あの頃はビザ取るために渡航費用を保証する銀行預金通帳を持って行かないかんけん、そしたら二十三円しか入ってなかった。
二十三円がまたリアルな。
……。
これがパンクの心意気よ。
むしろかっこいい。続いての曲行きましょう。
はい。
エルヴィス・コステロ&アトラクションズで「アリソン(原題『Alison』)」名曲ですね。
この曲をレコーディングした時は、まだアトラクションズじゃないから、この映像でのアトラクションズでの演奏を聞けるのはすごく貴重。これすごいゴージャスな四人編成のブラスが入って。
僕この曲は実はモッズで知りました。森山さんがよく歌ってましたよね。
やってました。
えらい良い曲やなあと思って、あコステロなんやって。
コステロももうすごい才能が豊かな人だと思うね。
なんかモッズとは繋がりがいまいち見えて来ないんですけど、どうでした?
いやでもあのファーストアルバムが出た時に、それこそジュークレコ―ドに行ってコステロのファースト見た時に「あ、マコちゃん(鮎川誠)ソロ出したんや」って。
確かに見た目がね。
よく見たらあれ違うなと思って、買って聞いたらかっこいいなと思って。すごいパンキッシュっていうより、やっぱメロディーがしっかりとした、なんかその辺がちょっと只者じゃないなって。
なんとなくパブ・ロックの延長みたいな要素もありますよね。ニック・ロウ絡みでもあるし。
あるね。だから俺たちって博多のバンドって、いわゆるパンクだけじゃない。引き出しが多いから。スローもバラードも。
ビートやパンクだけではない。
モリヤン見て分かると思うけど、歌って踊れるボーカリスト。
雑誌『Blue Jug』1982年7月号より。ライブハウス「多夢」にて。
それもまたちょっと興味深いですね。あと一曲行けますかね。北里セレクション。山部さんが来ましたね。キーコさん。(曲は「GOOD BYE MAMA」)
やっぱしみんなに見てほしいなあと思って、映像をね。
ある意味ソロシンガーみたいなところもありますもんね。山部さん。
だからね。あんなことやってるのに、こんな良い曲も作れるというのが悔しいよね。この曲はね、俺たちがあの、続編で書いたらいいのかな。
そっかあ。それはそうやね。
みんな聞きたいけん良いですよ。
じゃあね、ちょっとだけ言おうかな。モッズで、この曲をカバーする予定だったんよ。それは続編で書きます。
なるほど。では続編でお願いします。
謎の右側のギターの人。あれ俺の先輩で曽我浩三さん。
曽我さんも亡くなってしまいましたね。
癌でね。一緒のバンドでベース弾いたことある。
曽我くんって一回モッズのオーディション受けんかった?
覚えてないなあ。じゃあそれ俺が入る前の話かな。
もしかしたらあるかもしれない。
記憶がうっすらあるなあ。
続いて森山セレクション行きますか。
はい。行きますかね。これさっき話した映画館で動くザ・フーを観たってやつですね。
ザ・フー「シー・ミー・フィール・ミー(原題『See Me, Feel Me』)」。これは森山少年の心に刺さったという。
森山少年はもうびっくりしたね。かっこいいなって。でボーカルの人がマイク振り回すわけ。ロジャー・ダルトリ―が。早速それ取り敢えずやろうと。やったんだけど、当時狭いステージで。
天井も低くて。
マイクがギタリストのネックに絡まって、もうひどいことになった。でもまあそれくらい好きでした。
森山さん最初の頃ってギター弾いてなかったですもんね。ボーカリストでしたもんね。
そうそうそう。
モリヤンがブンブンブンブン、カウボーイみたいにマイクをブンブンする。やけんマイクが壊れるわけさ。だからライブハウスがモリヤンにはマイクを貸したがらんやった。
マイマイクを買うしかないけど、そんなお金無いやん(笑)。
さあじゃあ森山セレクション続いては。
ロッド・スチュワートの「もう話したくない(原題『I Don’t Want To Talk About It』)」。こんなにキャーキャー言われてたんだね。これはもう箱バンの時にやってたし。
名曲ですもんね。
これは名曲だね。でロッドの『アトランタ・クロッシング』ていうアルバムがあって、俺はどっちかというとフェイセズが好きやったっちゃけど、この『アトランタ・クロッシング』からは、よくカバーしてるんよ。
そうなんですか。良いですよね。
みんな踊りに来てるから。当時浦田さんと白井兄弟と一緒にやっていたスマイラーも、みんな好きだったよ。ロッド・スチュワート。だから一日で六、七曲歌った。でも英語は一日でそんなに覚えられんやん。めちゃくちゃ怒られたね。嘘ばっかり歌って。
歌詞覚えるのが大変だった。
適当に歌いよったら「お前なんアゴで歌いようとや」って(英語詞を適当に歌うのを厳しく指導された)。それよう覚えとるね。個人的には本当好きな曲でしたね。
「Everything But The Girl」もカバーしてました。
若い頃のモリヤンはそれこそ、今みたいにレイバンのサングラスじゃなくて ヘアスタイルもあれがかっこよかったよね。真似したいんだけど、俺は猫っ毛なんよ。だから全然立たんのよ。寝る時にずっと輪ゴムで縛って。
なかなか難しいですよね、立てるのがね。涙ぐましい努力がね。
でもやっぱ起きて輪ゴム取ると、ヘニャって。
森山さんかっこよかったですよ。すごい似合ってたというか。
好きだったんだよね。丁度「ベストヒットUSA」(テレビ朝日で放送された音楽番組)かな。博多でもやりだしたもんね。ロッドが出るっていうのを知って、おふくろとおやじを呼んで、まあ俺は変な恰好してたわけよ、その頃。「俺がこんな恰好しとる理由ば見せちゃあ」って言って、二人に見せたら、ものすごい冷たい視線で。見せんどきゃよかったね(笑)。
あの頃かっこいいっていう要素を森山さんから教えてもらいました。では次の曲行きましょう。
サンハウスの「ミルクのみ人形」。キャロルもそうだけど、ロックンロール!これはね、影響受けるよね。
もうルーツをたどるような。
今聞いてもすごい。
めちゃくちゃ速いですよね、演奏が。
マコちゃんもキレてるよね。
キレッキレですよね。鬼平(坂田紳一)さんのドラムも。
いいよね。あの頃の博多のバンドはみんな大抵影響受けてたし、それこそ北九州のルースターズにしても絶対影響受けてた。
繋がっていきますね。しかしえずい(博多弁で怖い)先輩たちでしたよね。
えずいね。爬虫類顔してるもんね。
俺も爬虫類顔って言われてたけどね。
本当ですか。
やっぱり爬虫類顔って言ってたら スライダーズのハリーとか、俺とかみたいよ。
媚売る感じじゃなかったですもんね。あと一曲、森山さん。この曲です。ドクター・フィール・グッドで「She Does It Right」。
このね、ギターの手元、ピックじゃないからね。
指ですね。
指で弾いてるからね。何であんなにドライブできるんだ。珍しいピッキングというかすごいと思います。
これぞパブ・ロック!そういう人たちですよね。
結局こういうエイトビートが博多の当時のバンドみんな好きで、やってたんじゃないかなあ。
間違いないです。カバーしたでしょ?
してました。MOZZの頃の後半というか終りがけ。
そんな初期の頃だったんですね。
今聞くとそんなに速くないけど、当時は「速っ!」みたいな、そういう感じで苦労したのを覚えてるよね。
ルースターズもカバーしてたし、福岡のバンドに通じる。
当時としてはね。
パブ・ロックだけに酒場に通じるところがあるんですかね。酒というイメージが強いですよね。
確かに。
フェイセズも酒(笑)。
飲みながらやってたら、その当時のツアー大不評やったらしい。
ストーンズも勿論福岡に来てますが、ロン・ウッドが画伯として博多に来た時、僕も帯同したんですけど、昼間からずっとギネスビール(アイルランドの黒ビール)飲んでました(笑)。
俺たちはステージでは飲まないようにしてるけどね、今は。今日飲んでるやつ絶対多いよね、きっと。
昨日もね。
昨日ね、飲んでたら店でヤードバーズが流れて。キンクスも流れて。博多しかないよね。こういうの。
びっくりしたー。
お二人に合わせてくれたのかな?実は今日は時間が無かったですけど、森山さんは実はキンクスも選んでくれてたし、キーコさんはダムドとかね。時間の関係でカットしましたけど、そろそろ締めなければいけないんですよ。
いやもうこんなに四百人も来てくれてありがとうございました。
ありがとうございました。
では最後にみなさんにそれぞれ一言ずつお願いします。
じゃあ俺から、もう既に買ってもらってる人たち本当にありがとう、というのと、12月23日に重版が出ます。待っといてください。個人的にはね、リハビリしなくちゃいけないけど、是非来年何月かわからないけど、ライブできればいいなと思っていますので、また遊びに来てください。
楽しみです。ではキーコさんお願いします。
来てくれてありがとう。ザ・モッズもようやくモリヤンがステージに戻って来れる兆しが出てきたんじゃないかなあ。だからここで俺が逆になんか体を壊したりとかしないようにね、しっかり健康に気を付けてやっていくんで、また見に来てください。ありがとうございました。
キーコさん、すごく目が優しくなりましたよね。
そう?
昔の映像とか、えずいです(笑)。
おかげさまで今日はすごく楽しいばかりの時間でした。改めましてTHE MODS、森山達也さん、北里晃一さんでした。ありがとうございました!
日時:2024年12月4日(水)
会場:福岡トヨタホール スカラエスパシオ
編集:元永直人、福岡音楽都市協議会事務局