【福岡音楽事始】:福岡民謡民舞考 流行歌の中の民謡(前編)

Youtubeなどを通じて、世界中の音楽が手軽に聴けるようになったいま、日本の「MINYO」に対する世界の注目度が高まりつつあります。民謡とラテン音楽と融合させた日本のバンド、民謡クルセイダーズが欧州や南米などワールドツアーを行ったり、日本民謡だけでプレイを組み立てるDJチームが国内外に現れたり、民謡や小唄などをサンプリングするトラックメーカーが出てきたりと、世界が「MINYO」に気づき始めました。

福岡には日本を代表する民謡「炭坑節」があります。この「炭坑節」が世に出るきっかけとなったのは福岡県田川の小学校の音楽の先生だった小野芳香が、選炭婦たちが歌っていた「伊田場打選炭唄」という仕事唄を学校で生徒たちに歌わせたのが始まりと言われています。
レコードの初吹き込みは昭和6年、田川後藤寺の芸者だった長尾イノによるもので、翌年に日東レコードから「後藤寺小唄」とのカップリングで発売されています。その頃「炭坑節」は好景気に沸く田川後藤寺の宴席で、宴会の歌として盛んに歌われていたそうで、踊りの振り付けもできました。
ちょうどその頃、日本にラジオ局が生まれ、仕事唄から座敷唄となった「炭坑節」を始め、各地の童謡や子守唄、そして民謡などたくさんの楽曲がラジオの電波に乗って全国に広がっていきました。

その後、太平洋戦争を挟み炭鉱の町は一時さびれますが、朝鮮動乱による特需景気などで日本は高度成長期に突入、国の石炭増産キャンペーンなどで筑豊の町にも活気が戻って来ます。
そして東京で流行歌手になっていた田川出身の元芸者 赤坂小梅が新たに吹き込んだ「炭坑節」が大ヒット。その頃まだラジオ放送だった1951年(昭和26年)の第1回の紅白歌合戦にも出場しています。その後、民謡界出身の歌手 三橋美智也が「北海盆唄」「相馬盆唄」「花笠音頭」など数々のヒットを飛ばして日本各地の民謡を全国区にしていくのですが、その中で後に盆踊りの定番となったものも多数あり、「炭坑節」もその代表曲と言えます。

「ソーラン節」「おはら節」「おてもやん」など、主に日活映画で活躍したマイトガイ小林旭も数々の民謡や俗謡を取り上げています。大ヒットした主演映画「渡り鳥」シリーズで、挿入歌にその映画の舞台となる地方にまつわる民謡が選ばれたのには、「ご当地ソング」としてその地方のカラーを色濃く出す狙いがあったものと思われます。もともとこの渡り鳥シリーズの1作目「ギターを持った渡り鳥」は、高知の民謡「よさこい節」を歌いこんだペギー葉山の「南国土佐を後にして」(1958年)の大ヒットを受けて作られた映画でした。

昭和30年代、高度経済成長を支える労働力として多くの若者が故郷から都会に出て行きましたが、地方から都市部へ出てきた多くの人の郷愁、すなわち「故郷を懐かしむ」気持ちと、「生まれ育ったふるさとを誇りに思う」気持ちが、この頃の全国的な民謡ブームの背景にあったのではないでしょうか。

まさに昭和30年代は大衆の中に民謡が深く根付いた時代でした。

(後編に続く)

写真提供及びCD等のお問い合わせ:田川市石炭・歴史博物館
【電話・ファックス】0947-44-5745
【E-mail】tchm@lg.city.tagawa.fukuoka.jp
【HP】ホームページはこちら
【写真詳細】
・坑内労働(採炭)
写真はこちら
・運搬(坑外)、選炭
写真はこちら

記事提供者:松尾伸也
ミュージックシティ天神運営委員会委員長
福岡音楽都市協議会 企画運営委員