【福岡レジェンドロング・インタビュー・シリーズ】街と音楽の記憶 第1回 財津和夫(前編)
福岡を音楽都市たらしめた先人達の証言を集め検証していくプログラム。
「福岡レジェンド ロングインタビュー・シリーズ“街と音楽の記憶”」
記念すべき第1回目は、“福岡が日本のリバプール”と言われるきっかけを作った張本人、財津和夫氏が登場!チューリップ結成に至るまでのヒストリー、現存する最古のライブ喫茶「照和」で当時何が起こっていたのか、丁寧に記憶を辿りながら、おそらく本邦初公開となる福岡時代の知られざる青春の光と影が徐々に紐解かれていく。
デビュー後、邦楽ロック創成期に新たな扉を開き、順風満帆に見えるその輝かしいチューリップの足跡は、財津氏によると意外にも葛藤の連続であった。しかしそのような心の旅も、かつて憧れたあのアーティストとの邂逅へと続く、、、。先ずはその前編から。
博多といえばのぼせもん気質
本日は貴重なお時間をいただきありがとうございます。以前、財津さんにお伝えしたかもしれませんが、昨年の4月に福岡音楽都市協議会という産官学民が連携して、業種やジャンルが横断した、おそらく全国的にも初めての組織を立ち上げました。それは「福岡が音楽に突出している街」という想いが個人的にありまして。他の都市と比べて福岡出身のミュージシャンや芸能人がこれだけ多く出てきているという事実があるので、この文化的な特徴は、まちづくり等で活用していけるんじゃないだろうかという想定のもとに、いろんなジャンルを横断して組織を立ち上げたんですね。
そもそも福岡が音楽都市になるにあたっては、財津さんがひとつの大きなきっかけになっているというのは間違いないと思っているんです。それこそライブ喫茶「照和」という象徴もありますけど、実際に70年代には、財津さんのチューリップであったり、甲斐バンドとか海援隊とか井上陽水さんとか。一気に70年代の初頭に皆さんメジャーデビューをされて、結果的にはことごとく売れて、福岡が「日本のリヴァプール」と言われるまでに。それが果たして偶然なのか、あるいはそこには何かの要因があるのかというところを当事者である財津さんにその当時を思い出していただきながら、お伺いしたいと思います。
ちょうど終戦が1945年ですよね。それで終戦後の世代ということで、子どもの頃に米軍基地が近くにあったりして、FENという、Far East Network(在日米軍向けの極東放送網)ですね。それがもう自然と入ってきて、特に福岡はその影響で洋楽をいっぱい聴いていた子どもがいると思うんですね。それがひとつと、もうひとつは九州の博多というのは東京からずいぶん離れていまして、札幌ぐらい離れていますけど、でも札幌からはあまり東京に向かってバンドやろうとか、歌を歌おうとかあまりないんですけど。
あまりイメージはないですよね。
なぜこっち側があるかということだと思うんですけど、「気質」というのはありますよね。お祭り好きだし、昔から芸能も盛んだったと思いますし、博多どんたくがあるし。
「のぼせもん」ですよね、いわゆる。
言葉は悪いですけどお調子者がいっぱいいて。できることなら東京で一旗上げられたら良いななんて思う人が札幌の人より多いんだよね、きっと。大陸に近くて、こっち側はちょっと熱い気質ですもんね。こっち(札幌)側はちょっと寒いので、なかなかパーッとはじけるような感じじゃないと思うんですけど。そういうのも手伝って、博多人特有の「俺が俺が」みたいな感じ。そして恥を知らない文化。(笑)
(笑)
いや、良い意味で言ってるんですよ。(笑)
わかります、わかります。(笑)
でも余談ですけど、東京へ行って本当に博多の人間はすごいなって改めて思いましたけどね。
福岡では当たり前と思っていたけど。
本当そうです。余計なことをよく言いますよね。「必要ないんじゃない?その言葉は」と。それでも言わずにいられないみたいな。本当に人情には篤いと思うんですけど。よく僕は例えて言うんですけど、そこに病気で寝込んでいる人がいたら、東京の人は「大丈夫?なんかあったら呼んでね、このボタン押して、すぐ飛んでくるからね、隣にいるから」でおしまいなんですけど、博多の人間は、せっかく寝ようとしているのに揺り起こして「なんかやることない?なんか手伝おうか?」ってずっと言い続けるような。(笑)そういう違いがあると思うんですよね。そういうことに東京へ行って気がついたりしましたよね。結局、血が熱いんですよね。
財津さんご自身も自覚されるようなことが東京に行ってあったんですか?
もう博多人そのものでしたからね。いろんなところで恥かきましたよ。きょとんとされたりするんですよね。「あれ?これ博多で普通に喋ってることなのに、なんできょとんとされるの?」とか、ちょっと嫌な感じと言うか、不快感を表すような顔をされる時があるんですよ。まあ場違いなことを言ったりするじゃないですか、博多の人間って。遠慮もあまりしないですよね。頭に浮かんだことをすぐ言葉にしちゃう。
考えずにポンと言ってしまうというところあります。
クッションがない。クッションがなかったらやっぱりどんどん東京へ行くんじゃないですかね。
バンド活動に明け暮れた学生時代
「のぼせもん」という意味では、さっきのFENもそうかもしれませんけども、財津さんも何か音楽にハマるきっかけがあるわけですよね。そしてすぐ「自分はもうミュージシャンになるんだ」というようなところに直結して行くわけですか?地元の福岡時代に。
福岡にいた頃は、わりと学生運動も盛んで。学校行ってもバリケードがあったりとか。
福岡でも学生運動はかなり激しかったんですね。
福岡も学校行ってもバリケードで。クラスの友達だったやつが、急にアジテーション的な喋り方をして、「お前も今日学校に寝泊まりしてバリケードの中で生活しろ!」とか言われて…。でも俺はできねぇなと。俺ナンパだしと思って。まわりもそうでしたし、本当に未来が見えなかったんですよね、社会的な意味で。個人的な意味では本当に貧乏で生まれてきて。うちの兄が2人いるんですけど、2人はもう学校行って学費使い過ぎたんで「お前はもう行かなくていい」とか言われて。「大学に行きたい」と言ったら行かなくていいと言われて。だから自分でも行かないもんだと思ったんだけど、紆余曲折ありまして、結局行くことになったんですが、授業料を払えなくなったんですよ、お金がなくて。バイトする気もないし。ズルしながら卒業しようと思ったんですけど、本当恥ずかしい話ですけど。当時は身分証明書の横に授業料未納のときはハンコを押してくれないんですよ。納め済というハンコがないので、今だからこそ話せますけど、赤の色鉛筆で…
(笑)払ったような
スタンプ偽造して。
それおもしろいです。(笑)
それをここに置いて、先生がグルグル回りながら「納入してるな、授業料」とかチェックしてるんです。それで試験を受けたんですけど、結局学生課か教務課か知りませんけど、問い合わせたら納入されていないということがあって、呼び出されて、合格点だったけど取り消したって。そういうこともあって、学生やっていても良いことないなと思って。でもそれから具体的に東京へ行こうと決心をして、東京というのはもちろんバンドで行くということしかないんですけど、でも積極的にいろんなコンテストとか出ながら、そういう機会を狙っておりました。
確か西南大学でフォー・シンガーズ(※1)というグループを結成されたという。それを持っていこうという思いがあったんですか?
そうですね。フォー・シンガーズというのは、僕らビートルズ世代ですから、楽曲含めてビートルズみたいなバンドにしたかったんです。でもフォー・シンガーズって、いわゆるトラディショナルなフォークソングをやるバンドだったんです。それは僕が作ったんじゃなくて、僕はぬるぬるって、どこかにとりえず入ろうと思って入ったから、バンマスは別の人間がやっていて、オリジナルをやりたいと言っても「冗談じゃない」みたいな。「モダンフォークかトラッドフォークか、どっちかだ」と言われて、だいぶ違うやろうと思ったんですけど。
(笑)
そんな感じで。でも所属しているというか、籍があるのはこのフォー・シンガーズなので、それでとりあえずヤマハのライト・ミュージック・コンテスト(※2)(1969年開催の第3回)に出場することを決めて。
かなり良いところまで行ってらっしゃるんですよね。
九州代表にはなったんです。九州代表で東京に出て行って、新宿厚生年金会館に全国から来ていて、オフコースやら、赤い鳥やら。そうそうたるアマチュアが。
同期の人たちがすごいですよね。
あの世代がね、いっぱい優秀な人たちが多くて。その中で、結構自信あったんですけど、結局6位になってしまって。全国レベルの質の高さを知らされて、また福岡戻ってバンドを作り直してってことですね。
チューリップとしての2度のデビューや個人的な挫折
資料協力:常盤響
それで、私も後々知ったんですけど「私の小さな人生」という、ある意味チューリップとしての最初のシングルがあったんですか?
そうですね。チューリップというバンド名で「私の小さな人生」というのがデビュー曲なんです。(1971年)でもレコーディングの翌日に2人が脱退したので。学生の身分ですからね、2人はちゃんと勉強もできたし、「俺は卒業してちゃんと就職する」って。
バンドではよくそういう分岐点というのがありますね。
ちゃらんぽらんな僕と吉田彰というのが残って。5人編成にして「ビートルズになろうぜ」みたいな感じ。
それでデビューをし直したという感じなんですか?
まあそうなんですけど、1年後ぐらいに「魔法の黄色い靴」という曲を作って、照和というライブハウスが今もありますけどね。
地下で練習させてもらえてたので、そこでオープンリールのテープで録音して、デモテープを作って。「私の小さな人生」の時のディレクターしか知りませんのでね、そこを訪ねていって、聴いてもらったら、やろうということになった。
なるほど。それが72年の「魔法の黄色い靴」。
72年に改めてのデビュー。
私の個人的な話にもなるんですけど、私は当時10歳で、たまたまラジオから「魔法の黄色い靴」が流れてきたんですね。チューリップが福岡のバンドということなど知らずに、だけどこれはすごくはっきり覚えているんですけど、ものすごい衝撃で。なぜならばそれは歌謡曲でもフォークでもなかったし、日本語なんだけどロックであり新しいポップスのような、洗礼を受けたというかというか、心に深く刺さって。子ども心ながらカタルシスというか、曲の構成やアレンジなど、すごい曲だなと思って。すぐ買いに行きましたから。あのサイケデリックなジャケットもインパクトがあって。
ありがとうございます。
とにかくすごくびっくりして。それで僕はチューリップって存在を知ることになった。本当にビートルズとほぼ同じぐらいの衝撃ですよ。
(笑)それは比べようがないと思うんですけど。
いやいや、聴いたことがない音楽が来たなというか。
日本では新鮮だったかもしれませんね。
とにかく当時福岡のラジオ局で毎日すごくかかっていました。
あれ福岡だったからかなりヘビーローテーションされていたんですかね。
どうなんでしょうね。
そのとき東京にすでに行かれていたので、福岡の事情はご存じないでしょうけど。
そうですか。ありがたいもんです。
でも実はまだそれが全国的にメジャーになるきっかけではなかったんですよね。
そうですね。そのあと「一人の部屋」というタイトルのシングルを出して、それがコケまして。3枚目でやっとヒットして
「心の旅」
ええ。
もちろんそのときに、テレビの歌番組とかにたくさん出ていらっしゃったし、その頃ようやく「福岡のバンドだったんだ」と、改めて知るところにはなったんですけれども。財津さんとしてはデビューから売れるまで、今思うといろんな葛藤とか挫折もあったんですか?
それはもう挫折だらけです(笑)
僕らからすればバーンと順風満帆で、一気に売れたようなイメージさえあったんですけど。
どこがですか?
「魔法の黄色い靴」に最初に引っかかってますし、それから「心の旅」も結構近いタイミングできてるから。
でも結局狭い業界の中だけで良いねと言ってくれたんですけど、一般的にヒットしないと、5人が生活していくわけですから。ですから2枚目の「一人の部屋」という曲がバーンと行かなくて。事務所はもうそろそろやめようかな「チューリップ福岡に戻そう」みたいな。
そんな動きもあったんですか。
あったと思うんですけど。
そんなすぐに。もう少しなんとかね。
今の時代と違いますので。僕らが東京出身だったら、なんだかんだ言いながらできるんでしょうけど。100か0かですから、福岡と東京だったら。東京にいないと活動もできないしゼロの活動ですからね。名前も全国的に知らしめることもできないし。だから結構いろんなところで私なりに大変だったんですけど。ただ一番わかりやすく大変だったのは、リードボーカルが1枚目2枚目は私だったんです。チューリップのリードボーカルは自分だと思って、自分のバンドだと思って。僕が歌うのを後ろでフォローしてもらう4人だと思っていたんです。
「俺が俺が」みたいな。(笑)
そう「俺が俺が」ですから。(笑)そしたら「心の旅」のレコーディングの日に、もちろん僕が歌うと思ってスタジオに行ったんですけどなんか空気が変で…。そうしたら姫野達也に歌わせようというスタッフの意見がまとまっていて。彼はリードボーカルと言っても、本人はやる気ないし、歌ったこともないし。「魔法の黄色い靴」という最初のアルバムを作っときに1、2曲リードボーカルは無理やりとりましたけど、全然そんなことは考えてもいなかったと思うんです。結局彼が歌うことになって、それでヒットしたのでね。バンドとしては最高ですけど、個人的には挫折ですよね。
ちょっと複雑な心境みたいな。
ええ。
でも結果的にはチューリップというバンドが、特にボーカリストが1人だけじゃなくて、ビートルズと一緒で何人かいるというところがまた魅力にもなりましたよね、結果的に。
そうですね。それを目指していましたからね。だから、無理矢理にでも歌わせていたし、コーラスにも参加させていたし、それから曲作りのほうもみんな全員やるようにしようと言って。
ポジションとしてのわかりやすさもあったんですかね。姫野さんってギターでフロントにいらっしゃるし、財津さんって鍵盤というかピアノのイメージがあるし。
それは「心の旅」からですね。フロントは僕だったんです。「俺が俺が」ですから。(笑)
(笑)でもどこか安堵することもあったんですか?あれだけ売れたので。
それはもう首がつながりましたからね。自分がリードボーカルをとっていないとはいえ、チューリップというバンドにいて、全国ツアーできるようになったので。またやり直しというチャンスはあるわけですよ。ただ売れてなかったらもう先がないですから。音楽をやめようと、バンドやめようということになりますから。でも売れたら、どんな形でもバンドは続いていくわけですから、それはありがたかったですね。
アウトローな生活をしていたことも
それこそ当時は時代も違いますから、ご両親とかは反対されなかったんですか?ミュージシャンになることを。
私の場合は末っ子で、結構放任だったんですね。ですから僕が東京に行ったことを親父は知りませんでした。
えっ。それもすごいですね。
おふくろは知ってましたけどね。そのぐらい自由にさせてもらったし。大学行く前に浪人というと筋が通ってるんですけど、勉強するつもりもまったくなく。親は学費足りなくて、金がないからって言うし。どうしようかなと思って。じゃあブラブラしてようって。ニートじゃないけど、そのはしりですかね。
(笑)
ほんとうにニートでした。いろいろ早かったです。(笑)
そのときは何をされていたんですか?
バイトしようと思って、いろんなところでバイトしたんですけど、やっぱり根性がないのか、続かないし…。具体的に言いますと、名島(福岡市東区)というところに当時住んでいて、近くにパン屋さんがあったんですよ、和白の手前ぐらいに。そこで働こうと思って入ったら、そこでは中学卒業して寮に入って若者が毎日働いていた。それこそチャップリンの映画「モダン・タイムス」じゃないけど、流れ作業をずっと何時間もやっている。僕も鉄板磨きという仕事を与えられて、パンを焼いた後のこびりついた焦げたパンの部分をヘラではがす。その仕事をやらされてたんですけど。もうやってられないわって。嘘みたいな本当の話ですけど、班長というのがいるんですよね、見回りが。竹刀を持ってるんですよ。
えーっ。
本当ですよ。
すごい、戦時中みたいな。
戦後12、3年たっていたかもしれませんけど、もうずいぶん変わったんですよ、世の中が。でもそこはまだ戦前を引きずってたんです。竹刀を持って、ちょっと休んでるやつがいたらバシーですよ。もちろん頭は叩きませんけどね。
こわい。
それでこんなところ、やってられねえやと思って。まわりのみんなは就職しているわけじゃないですか。家出て、寮に入って、そこで働いて食っていくというのを心に決めてやってるわけじゃないですか。僕なんか腰かけのつもりでやってて、すぐやめられるわとか思ってて。本当に2週間ぐらいでやめましたし。その時に実は俺は幸せなんだなと思いましたね。まわり見ると本当にかわいそうな感じがして。苦しそうな顔はしていませんけど、僕より若い連中が、昼休みになると楽しそうな顔になるんですよ。そして仕事が始まると暗い顔になって。ここにいたら見てられない感じになってきて。もうこういう光景が見えないところに行こうと思って。それでもっと自由にするんだと思って、パチンコを始めました。
(笑)
毎日パチンコ行って。それが運良く勝つ。
(笑)
この台がどうだこうだというんじゃなくて、適当にやってるだけなのに、やってるとお金がまとまってできて。それで初めてアルバム(LPレコード)というのを自分の金で買ったんです。
えー、その資金で。
ええ。それが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」。ビートルズの。
パチプロですね。(笑)
そういう生活でした。
じゃあとにかく早く一旗上げたいと、音楽で。
はい、そうですね。でも高校卒業の頃は確かに友達とギター2本でもアコースティックでもできるようなビートルズの曲を選んでやったりしていて。でもバンドで生計を立てようというのはまだ思ってなかったですね。パチンコで日々暮らしていた時も、その頃は本当に今思えば一番自由でしたね。明日どこに行くというのを明日の朝に決めれば良いんです。
究極の自由といえば自由ですね。
ええ。食べたいときに何か食べて。将来のことを一切考えないで。もちろんどこか意識はあって「俺ってどうなるんだろうなぁ」とは思ってましたけど。そういう日々のある日、パチンコ屋から出てきて天神をブラブラしてたら偶然高校の同級生と会ったんですよ、女の子と。彼女は高校卒業してもう就職していました。「財津君、何しようと?」って彼女が言う。「パチンコして帰ってきた」「大学行くちゃないと?」って言われて、「行こうと思ってたばってん、親が行かんでいいって言うけん今パチンコしよっちゃん」って。「本当はどうなの?」と。「大学行きたいんでしょ?」って。「まあまわりは行ったし、同じ大学行ったらバンドとかもできるかもしれんし、本当は行きたいかなあ」とか言ったら、「行きなさい」と言うんですよ。その女性、同い年だから18か19ですよね。同い年なのに精神年齢がめちゃくちゃ高いなと思ったのは、「親というものは、もし財津君が合格したら、絶対大学に行かせてくれるわよ」と言うんですよ。「借金してでも行かせてくれる、そういうものだよ、親っていうのは」と言うんですよ。「へー、親ってそういうもんなんや」って。
(笑)
なんかその一言でいろんなものが吹っ切れて。受験しようと思った。受験して、もし合格してですよ、でも親が金がないからダメだと言われても、それでいいやと思った。合格して行かない俺ってカッコいい。(笑)
なるほどね、一応そこはありますよね。(笑)
そう思ったんですよ。試験はうまくいかなかったんですけどギリギリ合格できて。お金はなかったけど、先に学校行ってる友達からお金を借りて入学金を払って、入学はできたんですけどね。でも授業料は払えない。大学の食堂でも食べる金がないから、昔は蝋細工じゃなくて本物が見本に置いてあったんですよ、ガラスケースに。それをこっそり開けて…。
(笑)
食べてたら、あるときそれを見つかって、食堂のおばさんから「あんたお金がないと?」って言われた。「はい」って言ったら「わかった、これ食べんしゃい」って。
良い話。
「でももうせんとってね」って言われて。いろいろ助けられましたね。(笑)
財津さんのその話は貴重ですね。どうかしたら、ちょっとやさぐれ系ですもんね、パチンコにハマったりして。(笑)
もうアウトローですね、完全に。本当に放任で育てられたので、社会性がまったくないんですよ。
チューリップはプロ野球ではなくて高校野球
それで大学に入ったら、照和とかでアマチュアの音楽活動が始まっていくみたいな。
大学入ったら先に入ってる同級生なんかとすぐ一緒にバンドを作って。それが最初のフォー・シンガーズだったんです。
その時代の福岡ってまさに群雄割拠、その後にどんどん同時代のデビューがあるじゃないですか。まわりの刺激というのはあったんですか?アマチュア時代の周辺の人たちというか。
あのころは関西フォークというのが日本でもすごく勢いがあって。
フォーク・クルセダーズとか。
高石ともやさんとかですね。
そう、高石ともやさんとか、岡林信康さんとか。関西系の社会派フォークソングというのがすごかったんだよね。東京は黒澤明さんの息子さんの黒澤久雄さんがやっていたザ・ブロードサイド・フォーとか。
ちょっとお坊ちゃん系の…。
そうですね。いかにも東京って感じの人たちが、フォークソングやモダンフォークをやっていて。でもオリジナルをやってましたね。関西と東京、それぞれ特色あったんですけど、福岡は何もなかったんですよ。距離的に近いのは関西ですから、関西フォークというものに影響された福岡の学生が結構たくさんいた。それでみんなギター1本とか2本でメッセージ系の歌を歌っていた時代でしたね。そんな中で僕らはビートルズが好きなので、ビートルズみたいなバンドを目指している。そしてあるところでは海援隊が。海援隊は最初は、ご存知かどうかわかりませんが、グランド・ファンク・レイルロードって…。(※3)
武田鉄矢さんはグランドファンクのボーカルのマーク・ファーナーの長髪を真似ていたという話は聞いたことがあります。
そうです。ヘビーロックの前ぐらいです。ハードロックと言われたんですけど。そのバンドの影響を受けてて。武田さんなんかは上半身裸で、ステージの上で、もちろん長髪で。なんかバク転とかしながら…。
全然、想像できない。(笑)
いろんな色のバンドがいました。その中で、何度も言いますけど、ビートルズをやりたかったので、ドラムとかエレキベースとかピアノとか、そういうのも入れてやりたかったんでね。ただ福岡ですから本当に選択肢がないんですよ。当時は「88(ハチハチ)」ってクラブがあったんですが…。
中洲のVILLA 88ですね。太田幸雄とハミングバーズが出ていた。
はい、大人が行くキャバレーみたいなやつですね。そこでドラムを叩いている人ぐらいしかドラマーっていなかったんです。フォービート系ですよね。シャッフルフォービート系のドラムしかやらないような。ダンダンダンって。ですからエイトビートを、ダンダンダンって叩くやついなかったんですけど、後にチューリップに入ることになる上田雅利だけがやってたんですよ。
当時は楽器も売ってないってことですか?
楽器屋はほとんどないですね。…。福ビルの中にヤマハがありましたね。あそこはよく行きましたけど。ただドラムとかのプレイヤーがいないんですよ。それで当時海援隊で叩いていた上田をヘッドハントしたら、こっちに来るというので。リードギタリストもエレキギターを弾けるようなやつが欲しいって。ハーズメンというカントリー系のバンドがいたんですけど、そこに安部俊幸というリードギタリストがいたので来てもらった。そして、ピアノもちょっといじれる、ギターもわりとフィンガー奏法がうまい、サイモンとガーファンクルのコピーバンドをやっていたライラックというバンドがあって、そこに姫野達也と千葉和臣がいた。千葉君も海援隊に最終的に入りますけどね。ですから当時よく言われたんですけどね、バンド3つ壊したって。
(笑)でもありがちといえばありがちですよね、そういう取り合いというのが
僕は壊したつもりないし、安部なんかは「ヘッドハントじゃない。自分は自分の意思で来たんだ」と言ってくれていましたけど、まわりには「バンド壊し屋の財津」って異名を与えられていました。
だからあれだけのメンバーが揃っているんですね、チューリップは。
いやいやでもね。正直な話、福岡ではわりとこれより上は望めないかなみたいなというか、否応なしに選んでいるんですよ、限界があるので。ドラマーが1人しかいないから。みんな学生ですからね。みんな下手っぴばかりですよ。そうやって集まって。でも今思えば、本当に一匹狼的な、「包丁一本」で動いているようなやつらを集めたバンドだったらすぐ終わっちゃったでしょうね。「チューリップってなんで長続きしてるんですか?」って言われたりする時によく思うんですけど、プロの集団じゃなくて、つまりプロ野球じゃなくて、高校野球。そのレベルだと思うんですよ。ただ下手なりにも魅力はないわけではない。全国ネットされるぐらいの魅力はある。でもプロから見れば「なんじゃこれ」って感じなんですけど。でも観客はプロも観たいし高校野球も観たいんですよね。そういうバンドだからこそ、分裂はしたことがありますけど、長続きしてるのかなって思いますね。
(2022年1月25日 西鉄グランドホテルにて)
制作/インタビュー:深町健二郎 企画/編集:松尾伸也 コーディネート:亀山みゆき
(※1)1968年12月、田中孝二をリーダーとし西南学院大学在学中に福岡市で結成された。財津和夫は吉田彰、末広信幸と共に参加。1971年に九州朝日放送(KBC)で録音した「柱時計が10時半」など4曲を入れた自主制作シングル盤を2000枚発売。
(※2)ヤマハ音楽振興会主催による音楽コンテスト。フォー・シンガーズは1969年に新宿厚生年金会館で開催された第3回目の大会に参加。この時のグランプリは赤い鳥で、オフコースが2位。
(※3)主に60年代後半~70年代の中頃にヒット曲を連発した米のハードロックバンド。日本でも人気があり、激しい雷雨の中で行われた1971年7月の日本公演は「嵐の後楽園球場」といわれ今も伝説となっている。
財津和夫(ざいつ・かずお)
1948年2月19日生まれ、福岡県出身。高校時代、ビートルズを聴き影響を受け、1971年チューリップ結成。翌1972年上京、東芝レコードより「魔法の黄色い靴」でデビュー。メンバーは財津和夫、吉田彰、安部俊幸、上田雅利、姫野達也。3作目の「心の旅」(1973年)がオリコン・チャート第1位を獲得後、「青春の影」(1974年)、「虹とスニーカーの頃」(1979年等のヒット作を発表。鈴蘭高原にて日本初の単独野外ビッグイベント「YOU’LL FIND ANOTHER SPACE」を開催(1979年)、翌々年にも鈴蘭高原にて「LOOKING FOR EUPHORIA」を土砂降りの雨の中開催し、感動的なコンサートとなった(1980年)。日本初の名古屋城内コンサートを行い(1981年)、コンサート1000回を記念し、よみうりランドを1日貸し切って“TULIP LAND”と題した「1000th LIVE」(1982年)、芦ノ湖畔にシンボル・パゴダの塔を建てての野外コンサート「8.11パゴダ」(1984年)等、チューリップは現在のJ POPアーティストの先駆けとなる大イベントを数多くこなす。1989年にチューリップは18年間の活動に幕をおろしたが、その後1997年以降期間限定の再結成を行い、デビュー35周年となる2007年には47枚目となるアルバム「run」を発表し、さらに「LIVE ACT TULIP 2007 2008 run~」と題した全国ツアーを成功させた。
チューリップの活動と並行して、1978年からソロ活動をスタート。「WAKE UP」(1979年)はセイコーのCMソングとなり大ヒット、「サボテンの花~ひとつ屋根の下より~」(1993年)がドラマの主題歌となりソロ・シングルが大ヒットする。
また、NHK“みんなのうた”で流れた「切手のないおくりもの」は世代を問わず、幅広く愛され続けている。
現在、作曲家として楽曲提供、アーティスト・プロデュース、ミュージカル音楽制作、俳優などとしても幅広く活躍している。