【福岡レジェンドロング・インタビュー・シリーズ】街と音楽の記憶 第1回 財津和夫(後編)
福岡を音楽都市たらしめた先人達の証言を集め検証していくプログラム。
「福岡レジェンド ロングインタビュー・シリーズ“街と音楽の記憶”」
記念すべき第1回目は、“福岡が日本のリバプール”と言われるきっかけを作った張本人、財津和夫氏が登場!チューリップ結成に至るまでのヒストリー、現存する最古のライブ喫茶「照和」で当時何が起こっていたのか、丁寧に記憶を辿りながら、おそらく本邦初公開となる福岡時代の知られざる青春の光と影が徐々に紐解かれていく。
東京に行ってもバンドの一員として歌えることは幸せ
福岡時代のチューリップは、既に人気あったのですか?
福岡時代にはないですよ。東京に行く前の「私の小さな人生」の時はメンバーが違いましたけど。メンバー作って「魔法の黄色い靴」で再デビューしまして。 東京へ行ってからは何年後ぐらいかな、一度分裂するんです、オールウェイズというのを姫野と安部が作って。
その後にですね。
3人がいなくなっちゃうの。その時に全国ツアーも決まっていましたからね。ポスターも作られていたし、そこで分裂ですから。どうしていいかわかんないよね。そういう苦労はありましたけど、そのくらいかな。あとは博多の人間がほとんどなので、かなりイケイケな感じですかね。
(笑)財津さんのドキュメンタリーを拝見したときに、須崎公園(福岡市中央区)の音楽堂でやられていたという話がありましたよね。残念ながら今あれはほぼ廃墟というか、今度リニューアルはされるんですけどね。
取り壊しになって、公園自体がリニューアルされるという…。
ああいう野外でも演奏されてたんですか?
あそこも学生バンドがいっぱい集まって、それこそ今でいうストリート系ですかね。屋外でやってました。
無料でお客さんも観られるような。
無料です。柵もなにもないですから。誰もが自由に使って良いと。そのステージを借りて。当時は若い女の子達がそこそこ来てくれて、もう極端な話、客席に誰もいなくても歌いたいんです。
音を出したいというか。
音を出して歌いたい。自己満足でも充分納得できるという、そういう時代というか、年頃ですからね。
当時はテレビとかにも結構出られていた印象が、福岡時代ですけど。
「パンチヤングFUKUOKA」(※4)といって、KBCの番組にいわゆる箱バンとして出ていまして。
デビュー前ですよね?
デビュー前です。それはチューリップの前身のチューリップ。だからメンバーが違う、4人の時なんです。
デビュー後、「心の旅」以降は次々とヒット曲が続きますよね。
次々ではないんですけど。
でも次のシングル「夏色のおもいで」は松本隆さんが作詞されていますもんね。。
それも僕の挫折のひとつで。
そうなんですか。取られたって感じですか。
作詞作曲やってきてたのに、「心の旅」で大ヒットしたのに、次の曲は僕が詞じゃないという話になって。松本さんをデビューさせたいというのもあったんでしょうね。
(松本さんの)作詞家としての初仕事だという話も。
そうですよ。僕が所属していた事務所と松本さんが契約していて。そういうのもあったので彼を使いたいんですね。
大人の事情が。
大人の事情で。それでこの曲は松本さんに書いてもらおうって。僕はもう、福岡の田舎者ですから「わかりました」としか言いようがない。
それもまた売れたけど、ちょっと複雑な心境なんですね。
まあでも、何て言うんでしょうね、福岡から東京へ行ってこれがやれているというだけで、バンドの一員でいるということだけでも、ほとんど幸せなんですよ。歌いたい時に歌える。今日もステージがある。明日もある。今はもうそれ考えたら嫌になりますけど。(笑)
(笑)
もう嬉しくてしょうがない。東京だと知らない連中が観に来るじゃないですか。知らない連中に自分たちの歌を聴いてもらう。「どうだいいだろ」って。本当に若気の至りで、自信過剰ですけど、そんな気持ちでやれるわけですから。それはもう毎日アドレナリンが出っぱなしですよね。
日本で「ライブ」という言葉が使われるようになったきっかけ
それで言うと、ライブバンドというイメージもすごく強くて、僕が日本のバンドで初めて買ったアルバムは「LIVE ACT TULIP」なんですよ。その当時って今みたいに映像がほとんどないし、たまに見る歌番組にチラッと出てこられるぐらいじゃないですか。僕もまだ子どもだからライブには行けないし、それで頭でイメージするしかないんですよ。でもすごいそれが、もう「夢中さ君に」で始まって。昔のライブアルバムって曲だけじゃなくてちょっとMCなんかも入ったりとかして、「うわーライブってこんな感じか」みたいにイメージしたりしながら聴いていました。
そうなんですよ。ですから全国ツアーできることは嬉しいんですけど、とにかく事務所は稼がなきゃいけないので、どんどんステージの仕事を入れるんですよね。年間最大で160本コンサートをやったこともありました。今は交通機関が発達していますから便利にいろいろ行けるんですけど、当時は自分たちで楽器持って、アンプも持って、夜汽車に乗ったりとか、トラックに乗ったりとか。もちろん当時はPAシステムとかなかったものですから、大きな楽器とかも持ち込みだったんですよ、自分たちで。もちろん会場にはあるんですけど、そんなもんじゃ自分たちの音楽表現ができないと。ビンソンというこのぐらいのスピーカーを2個ハイエースに積んで。もちろん調整卓も全部持ち込んで、いろんな会場へハイエースを動かして。そしてハイエースに乗りきらない楽器を自分たちが持って動いてたんです。新幹線はもちろん東海道しか当時ありませんでしたから、だからもう北へ行く仕事は本当にすごかったですね。雪が降るともう電車が動かない。予定よりも何時間も遅れて着いたりとか。それでも会場の外で待ってくれている人たちがいたので、それはちょっと感激しましたね。3時間遅れで着いて、そこからステージを設営して。今みたいなバチーンとした設営じゃないですから、簡単にパパパってできるんですよ。それでそこから3時間遅れで始めて、ちゃんと全部ステージやって、夜中近くに終わったりとか。本当におもしろい時代でしたけど。
ある意味パイオニアでもありますよね。そういうライブとかというものが。さっきの「LIVE ACT TULIP」でも、アルバムのタイトルに「ライブ」という言葉が入るのも初めてだったみたいですね、日本のバンドとしては。
僕らが所属していたシンコーミュージックというところは洋楽の出版を扱う会社で、イギリスとかアメリカにもちょっとした小さな支店があって、アメリカやイギリスの情報を本にしていて。「ミュージック・ライフ」とか、ありましたでしょ?
ありました。もちろん見てました。
あの雑誌は僕の子どもの頃からあったんです。そういう本を出しているような会社だったので、音楽生活もすごく洋楽風にやらせてくれたんです。当時はコンサートという言葉はクラシックの世界にしかなかった。クラシック以外はリサイタルと言っていた。
そうでしたよね。確かに。
でもシンコーミュージックの当時の親分の草野さんが「向こうはライブという言葉を使っているだろ」って。
草野昌一さんがライブという言葉を初めて使ったんですか?
そうなんですよ。
草野さんは作詞家 漣 健児(※5)としても有名な方ですよね。
そう。でも最初はライブじゃ真似っぽいから「ライブアクト」にすると言って、「LIVE ACT TULIP」という。
ブランドじゃないけどずっとその名前で続きますもんね。
ライブアクトシリーズですね。あれは草野さんだったんだ。
草野さんのお墓に刻まれた「青春の影」
ようやくその後、「青春の影」がついに財津さんのボーカルで出ます。
そうですね。チューリップもコンサートを全国回って、安定期に入って、74年ぐらいですかね「青春の影」は。
74年だと思います。
これもバラードはシングルにしないという草野さんの強い意志があったんですけど、でも担当の新田(和長)さんというディレクターが「青春の影」をシングルにしようと言って、いろいろ話し合った結果、シングルになったんですけどね。草野さんは反対で、シングルになったときはあまり良い気持ちじゃなかったらしいんですけど。草野さんという人は変わった方で、実はご自分の墓を死ぬ前から全部自分で作って、葬式も全部自分がプロデュースしたんです。
生前葬的な感じですか?
そうです、自分の葬式を。全部葬式の祭壇もデザインして、写真はこことか。
自分が死んだらこうしてくれと。
人はここを通って、ここで受け付けてチェックして。
(笑)
ですから生前作った自分の墓に自分の好きな曲を刻印した。自分が買い付けてヒットしたら嬉しいじゃないですか。無名の曲を世界から買ってきて日本で売れたりとか、またどこかで売れたりとか。そういう自慢の曲がいっぱい、好きな曲名がいっぱい並べられているんですよ。全部カタカナなんですけど、その中に漢字で「青春の影」というのがある。それはちょっと泣けましたね。
いや名曲ですもんだって。
いやいやいや。あんなにこの人嫌いだったのにと思って。(笑)
(笑)
墓に彫るなんてなあと思ったの。
僕の中ではチャート1位のイメージなんですど、ジワジワだったみたいですね。ロングセラーというか。
そうですね。あれはおかげさまで業界の同業者たちが歌ってくれたりしたんですよ。
なるほど。
チューリップはシンコーミュージックの第一号契約アーティストだったんですよね。
はい、出版会社だったので。プロダクションじゃなかったんですよね。
ピーター・バラカン(※6)さんとかも社員だったそうで。
イギリスでシンコーが契約して、ちょっとむこうでやってて、結局日本に来て。チューリップはビートルズが好きすぎて、「すべて君たちのせいさ」というタイトルでビートルズのカバーアルバムをやったことがあって。そのときにピーターに参加してもらって、英語の発音、イギリス英語ですから、チェックとか、英語のちょっとした台詞のところを言ってもらったりとか、いろんな遊びを彼にやってもらっていますよ。
なるほど。その昔、ご自宅にも泊まったことがあるって言われていましたよ、ピーターさんが。
そうですか。昔むちゃくちゃなことしてたからね。(笑)いろんなことしたから忘れてることだらけですよね。
ポール・マッカートニーとの想い出
でも「ぼくがつくった愛のうた」はアビーロードスタジオ(※7)で録音されてらっしゃいますよね。それは特別な思いがありましたか?ついにここに来たぞという。
アビーロードには本当に行きたくて行きたくて、行けるだけで嬉しかったんですけど、本当にあそこも良い思い出がありましたね。でも実はアビーロードスタジオでのレコーディングはできてないんですよ、ポール・マッカートニーに会っただけです。アビーロードスタジオでレコーディングしたかったけどできなくて、別のスタジオでレコーディングして、そのついでにアビーロードスタジオを見学じゃないけど、行ったときに会った。今思えばですけど、パイロットというバンドが…。
イギリスにありましたね、ポップな。
アラン・パーソンズ(※8)がプロデュースしていた。
そうです。そのパイロットがレコーディングして、それをエンジニアの横でミックスを聴いているスタジオを覗いたことがあるんですよ。もうスタジオの隅っこに2人の男の子がこうやって、本当にまだ売れる前ですよね。その曲を覚えていたので、「あいつらだ、この曲は」ってヒットしたあと、遡って思い出したんですけどね。
なぜエンジニアの知り合ったのかな。レコーディングしたのかな?あれ、ちょっと記憶が曖昧ですが、とにかくアビーロードスタジオのエンジニアと知り合いになったんですよ。彼に「ポールがここでやってるよね」と言ったら、やってるというから、頼むから紹介してくれって。
言いましたねー(笑)
博多っ子だ。
そしたら、なぜか勢いがあったんでしょうね、「1回くらいならいいかも」とか言われて、ポールがレコーディングする時に来いと言われて、アビーロードスタジオに行ったら、スタジオの警備員のような人がしつこく言うんです。「ポールはナーバスだから、ちょっとしか会わないから、なんとかなんとか」とか。こっちは心臓が飛び出すぐらいの思いなのに余計な事を言うんじゃないよと。そしたらリンダ・マッカートニーと当時のギタリストだったデニー・レインかな、それでポールがいて。いよいよ会ってもらえるということになって、スタジオの中で会うことができたんです。こっちは舞い上がっていますからね。日本から来たと言ったら、その頃ポールは知りませんでしたね。「日本ってどこだ?」って。
(ビートルズで)来日しているのに。
もうほら、当時は言われたところに行ってるだけですから。(笑)
(笑)
もうこんな籠の中に入れられて。
閉じ込められてますからね。
それで、日本を知らないんだとか思って。でもその頃はビートルズで来ただけですからね。ポールとしては来てないんですよ。
1回だけですね。
ビートルズとして行ったわけですから。もうギャーギャーギャーギャーというところしか見てないでしょうね、その頃は。それで、「どんな曲やってるんだ」と聞くから、「ビートルズは好きでカバーもしてます」とか言ったら「やってみたら」って。それで姫野がピアノで「レディ・マドンナ」をちょっと弾いた。そしたらポールが合わせてくれた。「ぎゃー、うらやましか、俺が弾きゃよかった」(笑)
(笑)本当ですね。
その時、僕カメラを持っていたんですよ僕。知らないんだったら、日本のことを知ってもらいたい。当時は日本で自慢できるのはカメラしかなかったんです。それで、リンダ・マッカートニーは…。
コダックの家系ですよね。
カメラマンでもある。
そう。だからカメラ好きなんですよね。自分でも写真撮っているので。それがチラッと頭に浮かんで「これあげます」って。
えー。
そしたら「嘘、マジ?なんでくれるのよ」みたいな。驚いてるんですけど「受け取ってください」って渡して。あとで失敗したなと思ったのは、中のフィルム、撮ったやつも…。
せっかく一緒に写った写真が…。
という失敗をしました。(笑)
それすごいエピソードですね。お会いされてるんですね、ポールには。
でも、他のアーティストだったらどうかなと思ったんですけど、よく会ってくれましたよ。
なかなか会えなさそうな方ですもんね。
知らない日本という国からチンピラが2、3人来てると。まだ「あなたたちのカバーしてます」とも言ってないんですよ。ファンは世界中からアビーロードにやって来て、とにかくなんとかして会えないかなと思ってるわけじゃないですか。そんな中でよく会ってくれましたね。やっぱりエンジニアがポールから好かれてたんでしょうかね。
なにかご縁があるんですよね、そこは。いやいや、いっぱい出てきますね、エピソードが。
すいません、身の上話ばっかりで。
作曲家としての活動
でもこうやって財津さんにお話をお伺いしているひとつの理由が、福岡が音楽都市になるきっかけを財津さんが作ってくださったということもありますし、僕らからすると財津さんご自身と楽曲もそうですけど、言わば文化遺産ですよ。これを何がしかの形で福岡に残したいという我々の想いがあって。音楽都市協議会のひとつの役割として、後世まで財津さんの音楽も含めて、ちゃんと残したいなという想いもあって。一度財津さんにはいろんな話を直接お伺いしたうえで、それもひとつの貴重な資料となるなと思ってますし、そういう想いで今日は無理矢理お話をお伺いしているような…。
メモリアルなものができたら、それは死んだあと嬉しいと思います。(笑)
いやいやご存命の間でもですよ。僕ら微力ですけども、そこは絶対何か形にしたいなというのもありまして。まだまだいろいろ話がありますよね。それこそ作曲者としても、松田聖子さんとかへの楽曲提供とか、あれも本当に3曲続けて全部オリコンナンバーワンヒットが生まれたり。
あれは彼女の魅力ですよね。何を書いても売れましたから。たまたま僕が作ってたというだけで。
いやいや、そうじゃなかったら松田聖子さんのデビュー40周年の話が財津さんに行かないですよ。
ヒットしたからですよ、その当時。ヒットしてくれたのは、僕じゃなくても、たぶん彼女の勢いだったらずっと売れていたと思います。
それは福岡つながり的な思いもあったんですか?あれは一緒になにか…。
まったくないです。彼女のソニーのプロデューサーがちょっとおもしろい人で。いわゆるそれまで書いていた作家さんじゃない新しいタイプのニューミュージック世代の作家、つまり僕らの世代の人間に書かせようという決断をしたみたいで。いろんな人にどんどん書かせたみたいですね。
それはご自身で歌うための曲とは全然違う切り替えというのがあったんですか?作曲家として。
僕の中ではいろいろと習作じゃないけど、ちょっとした曲の破片みたいなものはいっぱい引き出しの中にはあったんです。でもチューリップで使うことってあまりなかったんで、だからちょうどどこかで使いたいなと思っていた。引き出しの中から出して、1曲にまとめたという、そういう作業をしていたような気がします。
それはそれでいろんな数々の名曲が残っていますしね。
ヒットしたから名曲になるんですけどね。(笑)
そうかもしれませんけど。まさに、また今度新しくまた作られたとか。
ええ。40周年のを新しく作ったんですけど、。彼女の娘さんがああいうことになっちゃったので、ちょっと活動を自粛してるみたいですね。
「風に向かう一輪の花」の次の曲も。
次を出した直後だったんですよ。「風に向かう一輪の花」は彼女が詞で僕が曲を書かせてもらったんです。その次の曲は「私の愛」というタイトルなんですけど、それは詞も曲もやることができまして、結構力を入れて作りましたね。「風に向かう一輪の花」よりももうちょっと華々しいアップテンポな感じが良いと言われたので、そんな感じにしたんですけど。
思い起こせば「魔法の黄色い靴」からちょうど50周年ですよね。改めておめでとうございます。
いやいや、本当にあっという間でしたね。
この業界で50年というのは、誰もができることではないと思いますし。
本当に3年で福岡に戻ってくるつもりでしたからね。そういう時代だったんですよね。
これからは、もう一度福岡と向き合いたい
最近は作詞講座を福岡でされたりとか、いろいろと福岡にすごく目線を向けていただいているような気がするんですけど、今どういうふうに福岡を思ってらっしゃるんですか?
本当に福岡にいたころは、福岡と向かい合ったことがないんです。
若い頃には。
若者ですし。でも若者でも、もうちょっと福岡に向かい合うこともできたかなって、今振り返ると思うんですけど、とにかく東京に行かなきゃどうしようもないって。先ほどもいろいろお話しましたけども。自分自身もそうですし、時代背景もそうだったので。あの頃は本当に学生が起業するというか、会社を作るとか、そういう時代だったじゃないですか。「ぴあ」(※9)しかり。いっぱいありましたよね、本当にそういうムーブメントがあったと思う。ですからもう九州にいる僕も、学生だけど何かやれるんだと思って東京ばかり見ていたんですけど、改めてだんだん仕事も落ち着いてきて、30年経ち、40年経ち、福岡に対する考え方、見方も変わってきましたね。東京と福岡というのは本当に距離がありますから、東京に行ったときは絶対に福岡に戻るまい。どんなことがあっても.…。
退路を断ってというか。
本当おっしゃる通りで。振り向いたら負けると思った。里心つくようなことがあっちゃいけないから、福岡を嫌いになろう、むしろね、そう思いました。そんな気持ちでずっとやってて。でも故郷ですから。里心がつくなって言われてもね。もう年取ったら里心ついてもいいじゃん、もう俺は東京でやりきったような気もするし、充分やってるし、これからまた新しいことを全国的にやるということはないだろう、じゃあ自分の余生、何したらいいか。若い頃は忙しすぎてまっすぐ福岡を見なかったけど、もう1回ちょっと見てみようかなと思って。福岡に注目していたら、意外と思ったよりどんどん福岡が大都市になってきていて。半分自分の故郷がなくなっていくような、街並みはどんどん変わっていくし。故郷を一度離れた者にとっては、昔のままとか、田舎くさい感じが嬉しいじゃないですか。そういうものがなくなっていくことがちょっと寂しかったんですけど。でも、待てよと。これ住むということを考えたらこのくらいの街のほうがいいんだよと思って。じゃあ福岡で何か仕事をしながら住むこともできるんじゃないかなと思い始めて。家は東京にあるんですけど、終の棲家としては福岡なのかな、やっぱり。
それは嬉しいですね。
博多というよりも福岡かなと。考え始めたりして。結論は出てませんけど、福岡をもう一度そういった目で見てみようと思ってる最中です。
素晴らしい。
いやいや。個人的な話ですから。
本当に嬉しいですね。ぜひこれからも福岡で何かご一緒できればと。本当に財津さんのせいでと言ったらおかしいですけど、財津さんをきっかけに福岡の音楽都市って始まっていますから。
福岡は今も若い子たちがどんどん出てきているんですよ。ぜひそういうところで何か、もし財津さんとコラボみたいなことができれば、ぜひお願いしたいですね。
年寄りなのでできることとできないことがあると思うんですけど。
ぜひそういうことも含めてご相談させてください。
今日は、たいへん貴重なお話ありがとうございました。
いえいえ、とんでもないです。一人でペラペラ喋って。
お疲れのところお時間いただいてありがとうございました。
(2022年1月25日 西鉄グランドホテルにて)
制作/インタビュー:深町健二郎 企画/編集:松尾伸也 コーディネート:亀山みゆき
(※4) 1970年から1973年まで九州朝日放送(KBCテレビ)で土曜夕方17時から放送されていた福岡ローカルの公開バラエティ番組。福岡市天神のダイエーショッパーズ福岡7階に設けられた特設ステージからの生放送で、司会は長沢純だった。
(※5)(さざなみ けんじ)日本の作詞家、訳詞家。本名は草野 昌一(くさの しょういち)。本名名義で編集者、実業家として活動し『ミュージック・ライフ』編集長、シンコーミュージック・エンタテイメント会長を務めた。作詞家としては1960年に坂本九の「ステキなタイミング」の訳詞を漣健児の名前で発表。以後、当時のアメリカン・ポップスをリアルタイムで400曲以上を日本語化した。
(※6)1951年ロンドン生まれ。 ロンドン大学日本語学科を卒業後、1974年来日、シンコー・ミュージック国際部入社、著作権関係の仕事に従事。1980年に退社し執筆活動、ラジオ番組への出演などを開始、また1980年から1986年までイエロー・マジック・オーケストラ、後に個々のメンバーの海外コーディネーションを担当。現在フリーのブロードキャスターとして活動、「バラカン・ビート」(インターFM)、「ウィークエンド・サンシャイン」(NHK-FM)、などを担当。 著書に『ラジオのこちら側』(岩波新書)『わが青春のサウンドトラック』(光文社文庫)、『ピーター・バラカン音楽日記』(集英社インターナショナル)など多数。
(※7)英国のレコード会社EMIによって1931年11月に開設されたロンドンの録音スタジオ。ビートルズやクリフ・リチャード、ピンク・フロイド、シャドウズなどが録音を行ったスタジオとして有名。スタジオはウェストミンスターのセントジョンズ・ウッドにあるアビイ・ロードに位置する。
(※8) ビートルズ、ウイングス、ピンク・フロイドなど数々のアーティストのエンジニア、アレンジャー、プロデューサーを務め、多くの傑作を世に送り出してきた。その後は自らもミュージシャンとして作品を発表するようになり、1975年にロックユニット「アラン・パーソンズ・プロジェクト」を結成。コンセプト・アルバムを主体として世界的な成功を手に入れた。
財津和夫(ざいつ・かずお)
1948年2月19日生まれ、福岡県出身。高校時代、ビートルズを聴き影響を受け、1971年チューリップ結成。翌1972年上京、東芝レコードより「魔法の黄色い靴」でデビュー。メンバーは財津和夫、吉田彰、安部俊幸、上田雅利、姫野達也。3作目の「心の旅」(1973年)がオリコン・チャート第1位を獲得後、「青春の影」(1974年)、「虹とスニーカーの頃」(1979年等のヒット作を発表。鈴蘭高原にて日本初の単独野外ビッグイベント「YOU’LL FIND ANOTHER SPACE」を開催(1979年)、翌々年にも鈴蘭高原にて「LOOKING FOR EUPHORIA」を土砂降りの雨の中開催し、感動的なコンサートとなった(1980年)。日本初の名古屋城内コンサートを行い(1981年)、コンサート1000回を記念し、よみうりランドを1日貸し切って“TULIP LAND”と題した「1000th LIVE」(1982年)、芦ノ湖畔にシンボル・パゴダの塔を建てての野外コンサート「8.11パゴダ」(1984年)等、チューリップは現在のJ POPアーティストの先駆けとなる大イベントを数多くこなす。1989年にチューリップは18年間の活動に幕をおろしたが、その後1997年以降期間限定の再結成を行い、デビュー35周年となる2007年には47枚目となるアルバム「run」を発表し、さらに「LIVE ACT TULIP 2007 2008 run~」と題した全国ツアーを成功させた。
チューリップの活動と並行して、1978年からソロ活動をスタート。「WAKE UP」(1979年)はセイコーのCMソングとなり大ヒット、「サボテンの花~ひとつ屋根の下より~」(1993年)がドラマの主題歌となりソロ・シングルが大ヒットする。
また、NHK“みんなのうた”で流れた「切手のないおくりもの」は世代を問わず、幅広く愛され続けている。
現在、作曲家として楽曲提供、アーティスト・プロデュース、ミュージカル音楽制作、俳優などとしても幅広く活躍している。