【福岡レジェンドロング・インタビュー・シリーズ】街と音楽の記憶 第2回 鮎川誠(前編)
福岡を音楽都市たらしめた先人達の証言を集め検証していくプログラム。
「福岡レジェンド ロングインタビュー・シリーズ“街と音楽の記憶”」
第2回目は「めんたいロック」と呼ばれる博多のロック・シーンを築いた一人、現役ロックレジェンド鮎川誠氏が登場!前編では久留米や中洲、天神でバンド活動に明け暮れていた学生時代の記憶を辿りながら、世界に誇れる日本のブルースロックバンド「サンハウス」結成までのヒストリーを紐解いていく。
いまでもエンジン全開でライブ活動中
本日はお時間いただきありがとうございます。福岡音楽都市協議会という組織を昨年度立ち上げることができたのですが、福岡を音楽都市たらしめたひとりが鮎川さんだと僕は思ってるんです。
いやいや、それは光栄なことで。
ここにきて鮎川さんすごくないですか?活動がまた盛んで。
はい。もう常にエンジン全開です。残しとってもなんにもならんから、もったいないと思って。でもね、前からそんな気持ちはあったんですよ。バンドは明日のことやら考えてずっとやれんし、シーナ&ロケッツ作って悟りに近いものがあったから。俺たちの持っとるもんを勝ち得たワンステージで全部出すっちゅうのは、東京へ行ったときのスタートラインからそれやと決心しとった。
まさにアルバムの「今日を生きよう」(※1)じゃないですけど、そんな感じですよね。
今日を過ごせば明日はやってくるけど、明日のことにこれだけ取っとってとかっちゅうのは、バンドなんてそんなもの約束されたもんじゃないからね。自分で勝手に決めて、自分で勝手に行って、それでダメになりゃもう、シュンとなって帰るっちゅう、それだけ。
コロナ禍になってからは、じっとしておかなきゃいけないとかで辛かったんじゃないでしょうか?
俺は普段からじっとするような生活やったんです。その代わりバンドには出ていくけど、もう人と会うとか、人を求めるとか、楽しい場に行くとか、それはもうここ何十年、あんまりなかったんですね。今はネットがあるけん楽曲を探すのも家でできるしね。それまでは街に出てレコード屋さん巡ったり、本屋さんでいろんな情報を読んだり。朝になるのが待ちきれんで、街に飛び出していく、自転車に乗ってね。ところが、90年代から僕はもう、そげん、お酒も飲まんし、友達を求めとるわけでもない。最高の家族とロケッツの仲間がおるから。
またパワーアップしてる感じもしますよね。
ちっちゃいファミリーみたいな感じでずっと日々暮らしよったからね。コロナ禍での制限は世間がみんな、スケープゴートを見つけるみたいに、「こういうやつが悪いったい」って言ったりとかさ。すぐにそういう風潮っちゅうのを感じたね。コロナの分断とかよく言われたけど、コロナでつらいのはそっちやと思うんですね。病院に入ったら規則で面会もできないとかもあるしね。自分自身がかからんようにせないかんっちゅう。
バンドやるにあたっては健康ありきみたいなところもありますよね。
でも音楽には全然制限がないんですよ。
鮎川さんの中では止まったことがないんですね。
音楽はいつも自由な場所にあるし、どこまででも飛んでいけるやないけど、音楽を追い求められる。だから、コロナ禍になってからは音楽をよりいっぱい聴いたかもしれん。レコードも復活してきて、スプレーなんかかけて。50年ぶりぐらいにやってね。「このにおいだ」とかあるんよ。それに浸ったり、自分の楽しみは次から次にあるんです。
久留米で人生初めてのバンド体験
鮎川さんがすごいのは音楽に対する初期衝動が今でもずっとキープされているところ。それって意外とありそうでない人が多いと思うんです。それが単純にすごいなと思って。
ありがとうございます。
鮎川さんがどういうふうに音楽に入っていき、そして今日があるのかみたいな。主に福岡時代の話とかを重点的にお聞かせください。
それは俺の今のテーマでもあるんですよ。初めてステージに立ったのは1966年の石橋文化センター(※2)なんです。その66年というのは初来日したビートルズが6月30日から7月2日にかけて日本武道館で5回公演したんですよ。学校の友達と家でテレビに映るビートルズを食い入るように見てました。
映画以外では初めてだったわけですよね。
そうです。あのビートルズを見た中の一人に家が農家の野球友達がいて、本屋で立ち読みしとったら俺に声かけてきて、「今から田んぼの向こうの納屋の2階にアンプを置いとるけぇ、一緒に見に来んね?」とか言われてついていったけど、俺はよその学校のやつやし、人見知りはするし、どうやってそこにおれば良いのかって思う瞬間もなく、俺に「ギター少しは弾ける?」とか言われて、「少しなら弾けるけど」って言ったら渡されて、ビートルズの「デイ・トリッパー」をやったんですね。
いきなり難しい曲ですね。
でも、武道館でやっていた曲なんです。それでコピーしてて。そいつが「デイ・トリッパー」を、ミック・ジャガーみたいに手ぶらで歌ったんですね。それで、2曲目に「ロックン・ロール・ミュージック」をやろうってなったときに、全然ギターの弾き方がわからんやったんです。それで明善高校の新聞部に集まって、みんなで「あれはどうするん?」「こうるすん?」「ギターの弦を引っ張りよったごたぁぜ。」とか研究してました。
まだそんな情報もなにもないような時代ですもんね。
わからんやったことを納屋で、リードギターのゆうちゃんっていう友達が指の押さえ方を目の前で教えてくれて、それでローリング・ストーンズの「キャロル」やら一連のロックンロールの謎がひとつ解けたんですね。その次はチョーキングを習って、「3弦の代わりに2弦を張ってすこし緩くしたら指でギューンって上がるんよ」っていうのを聞いて、それが目からウロコで、すぐ家帰って練習していました。中学3年ぐらいからラジオに夢中でずっとロックを聞いてきて、本当に音楽は大好きですね。
その納屋でしたのが、初めてのバンド体験なんですか?
そうですね。ブリヂストンの創業者、石橋正二郎さんが寄贈した久留米にある石橋文化センターという文化施設のプールを開放して、夏祭りが開催されるのがわかって、そこで納涼エレキ大会の出演募集をしていたので応募したら受かったんです。俺は後から知らされたんやけどね。それで夏休みとともに、どこの学校なのか、名前とかしか知らん、そんな仲間が音楽だけでつながってね、俺も仲間に入ったのが、人生初めてのバンド体験でした。
2年前に久留米の友達がたまたま1966年の大会の写真を見つけてきて、よーく見たら看板に「サマービート66」って書いてあったんです。何十年も経ってから「サマービート66」が俺の中で呼び起こされて、それで「サマービート22」という名前のイベントをまた現代に復活させることにしたんです。
このサマービート66をきっかけにバンド活動が盛んになっていくんですか?
このとき俺は高校3年やったけど、そうやってバンドで音を出したらさ、もう教室戻ってもアホくさいわけ。サイン・コサイン・タンジェントやら、先生が書いたっちゃさ、おもしろくないんよ。
(笑)
俺らはいつもラジオに夢中で、ボブ・ディランのサブタレニアン・ホームシック・ブルースのリズムとあんな言葉で。それとかローリング・ストーンズ、ビートルズ、オーティス・レディング、ウィルソン・ピケットやら。モータウンが流行って、ラジオを聴けばご機嫌な音楽があるし、FEN(Far East Network)があったから、土曜日の3時に急いで家帰って合わせると、ケイシー・ケイサムのトップ40というのがあってね、久留米にいながらアメリカとリアルタイムにつながるんですよ。
そこは常にチェックしていたわけですね。
明善の仲間はとんがったやつが多くて、友達の家に行けばステレオがあって、「お前ちょっとこれかけて」とか言って、自分が持ってなくても人のものは俺のものみたいな。
シェアできるみたいな。
はい。ずっと音楽を聴いていました。それで高校3年のときに今度は久留米の文化ホールで、似たようなコンテストがあったので同じ仲間でバンド出演して。3回目のステージは明善高校の文化祭。友達が「代わりに申し込んどったぜ」とか言うて、講堂で演奏されるっていうので、初めて僕がリーダー、リーダーバンド、ボーカルとリードギターもやって。3回目で最高に味をしめて、それでずっと弾いておきたいと思いましたね。ただ、すごい風当たりは強い時代で。。
ちょっと不良扱いされるみたいなね。
不良扱いされる、エレキはダメ、長髪はダメ。昔は地域自体が大きなファミリーみたいなところがあるから、道歩きよったら知らんおっちゃんでも、平気で子供を呼び止めて怒ったりする。「なんかお前は!」とか言われて「なんですかぁ?」とか言ったら「お前髪ば切らんかい、この」って(笑)
そんな他人からも(笑)
他人からも言われてましたよ。今は逆ギレが怖いから年配の人もそんなに怒らないやろうけど。
そんな時代にエレキを腹いっぱい弾くには大学に入るしかないと。それは近所の人たちの所作を見て感じよったの。「あの人明善やけんね」っておばちゃんたちが話しよって、良い高校に入っている人には甘いように感じたんよ。進学校じゃない普通の高校やったらあからさまに大人の態度が違うのを見てきたから、「そうか、自分が明善入ればいいんだ」というので明善入れるように頑張ったし。
それで入れるのがまたすごいですね。
浪人時代の運命的な出逢い
それから大学行って、隠れ蓑でその中に入り込めば、世間から、知らんおっちゃんからまで呼び止められて、説教されたりせんぞっていうことで九州大学を受けたんですけど、歯が立たんで。というか夏から音楽にどっぷりはまってアホになっとるのに、急に勉強しても頭に入ってこんとですよ。ただ、幸せなことに明善高校には、明善だけの浪人を受け入れる明善自習学園というのがあるんです。
塾のような。
同じ敷地の中にあったので、俺はもう1年頑張ろうと思ったけど、そうはいかんのです。電話やらない家やったけど、コンって石が窓に当たって、開けると「おーい!」って言って。バンドの誘惑ですよ。浪人時代はそれの繰り返しだったけど、実は博多駅の「フォーカス」にオーディションに行ったこともあった。
浪人中にですか?
うん。なんのあてもないのに、行ってましたね。博多にはプロのバンドがいっぱいいるけど久留米はやっぱり地方都市だからいないんですよ。だけどある時、久留米では見ないような5人組が、六ツ門という一番人気の通りで見たって俺に言いにくるやつがおって、タータンチェックに網ブーツ履いて、みんなミリタリージャケット着て、絶対あれバンドよって。俺もパッとイメージが浮かんで、行こう行こうって。ダンスホールというのがまだ全盛期だったころです。
60年代ですね。
久留米には巨大なゴム産業があって、石橋(ブリヂストン)、月星(ムーンスター)、日本ゴム(アサヒシューズ)やら。ゴム工業がものすごく盛んで、ダンスホールは夕方になると満員になる。そういうのが娯楽の中心やったね。
その5人組はそこに出演するために来てたんですか?
そう、バンドやったね。それで友達がそこにコネを持ってて、まだ本番が始まる前に行ったんですけど、普通に入っていってもパンチが弱いと思って、ポケットにハーモニカ持っとったんで、ストーンズのある曲を「パーパパー」とか吹いたらダンスホールやからすごく響いて。そしたら5人がもう一斉にパッと俺のほうを向いたんよ。「やった」と思ったのと、この人たちは本物だと思った。ハーモニカの音にあげん反応する、この人たちは絶対わかっとる人だって。その時点で俺にとってはそのバンドは最高って思いました。
なんか映画のシーンみたいです。
それから遊び行くようになって、いろいろやさしく教えてくれましたね。6時がオープンでお客さんがまだ全然来ない1回目のステージは使って良いよとか言われて、「本当ですか」ってストーンズの曲やら、俺らの好きなビートルズの曲やらやらせてもらってました。練習スタジオもない時代、楽器だってみんなバラバラだけど、そこにはドラムがあって、ベースアンプがあって。そういうのをやらせてくれたのが「アタック」というバンドだったんです。
それがアタックなんですね。福岡のバンドですよね。
そのアタックのメンバーに出会ったことで、「俺今浪人やけど、頑張って大学入ったらまた追いかけます」みたいな感じで「また会いましょう」って。浪人中に「フォーカス」のオーディション行ったらアタックもいて、いきなりサイケデリックな格好に変わっとってね。
時代がまた変わったんですね。
マージ―・ビートな感じのグループやったけど、フラワーが入って。たった半年ぐらいなんやけど、「おー」っていう感じで。それで、俺たちのオーデションの結果はもちろん通りもせんやった。演奏ができる場所で、みんなで集まってやるっていうぐらいのことまでしか考えてなかったからね。それが67年で、とにかくアタックと出逢ったことが俺のバックボーンになりましたね。
アタックはセミプロというか、プロに近い感じですよね。
バンド活動で生活してましたね。それで俺は九大が良いと思ったの。九大に入ればもうしばらくは腹いっぱい音楽ができる。それで当時は九大の中で一番合格点の低かった農学部を受験したのね。
中洲を中心にいろんな先輩たちから育てられた大学時代
それでバイク持ってる友達に「そこまで乗せてって」とか言うて、合格発表のところに行って自分の番号見たらあるんです。「やったー」ってなって。その1か月後ぐらいかな、晴れて九大生になって入学式の日に記念講堂で学長の話がありよるけども心はもう中洲ですよ。
(笑)
もうはよ終わってくれーって思って、みんなはまだ座っとるけども、俺はもういいやろっていう感じで、出ていったんです。中洲にある「赤と黒」という店にバンドが出てるという噂を聞いて向かいました。この時の情報は全て口なんですね。パンフレットもないし、そんな時代です。
まだシャッターが閉まってたので、時間つぶしに川端通りを歩いてたらかっこいい音楽が聞こえてきて、慕情というお店に行ったんです。お茶一杯200円で聴けるんですね。そこでの出逢いが柴山(俊之)さんやったんです。
すごい、また運命的な。
今になって思えば運命的やった。キースというバンドで、すごく新しい音楽しよるんです。ポール・バターフィールドやらスペンサー・デイヴィスとか。すごいなと思いながら聴きよったけど、もうそろそろ時間かなと思って中洲に戻ったら、アタックが5人でいるんですよ。「あ、まこちゃん」ってなって、「なんばしよっと?」みたいになって、「入学式で九大に入ったんよ」って言ったら、「良かったね、今日からギター弾きにこんね!」って言われて。対バンがおったから、ギターはそっちから借りて、本当にその日からステージに一緒に入れてくれたんです。
すごい、入学式当日ですよね。柴山さんにも出会っているし。鮎川さんが自らそこを引いてる感じもありますよね。
見習いとして入ってしまえば、さすがに俺もいっぱい曲知っとるから、ソロモン・バークの曲とか、渋いのばっかりアタックはしよって。
結構R&B系なんですか?
ジェームス・ブラウンやらウィルソン・ピケット、アーサー・コンレイとか。
なるほど。結構渋いですね。
バンドが終わって久留米に帰るには10時半の急行が最終なんですよ。ギリギリ10時過ぎまで演奏したりして、最終前に帰りますちゅうて中洲から天神まで走って10時半の最終に飛び乗って、そんな感じの毎日でしたね。アタックにもいろんな仕事が入ってきて俺らも入ってやったりしたんです。岩田屋の屋上で「ピンキーとキラーズ」という当時すごい有名なバンドが出るときには前座もしました。そのころ母に3万円借りて、楽器屋さんでマイギターを買ったんです。ジョン・レノンが好きやったから、白黒のリッケンバッカーそっくりのハニーというギターでしたね。
1968年6月やったかな、九大に米軍のジェット機がぶつかったんです(※3)けど、そのとき大橋駅をちょうど通りよって、今は見えんけど大橋から箱崎の九大が見えるんでパカーンって光ったの。
瞬間を目撃?
そう。5、6分経ったころに、サイレンがワーワーいってましたよ。帰って次の日、朝見たら、理学部にジェット機が突っ込んどったんですね。全学連のやつらが、それをシンボルにしましたけどね。その後は校舎が占拠されて、授業がなくなったんです。音楽ができる時間ができてちょうど良かった。(笑)
活動にさらに拍車をかけるように。
それでも掲示板見て、教授がいろんな方法で授業を不便な中でもやったりして、俺はちゃんと受けよったけどね。アタックにまだ外国やった沖縄に行くという仕事が来て、ステップアップするためにも沖縄へ行くというのは箔がつくんです。
基地での仕事というか。
コザの街に行くことになった時に、九大の前期の試験がちょうど9月で行けなかったんです。本当のこと言うと俺、沖縄行きたくなかったんです。音楽は好きやったけど、共同生活はえらい苦手なところがあって。気ままにしておきたかったから。
確かに当時で言うとまだ外国ですしね。
そんなにお金も持ってないし。そしたら案の定日本から行ったバンドは悪徳マネージャーにギャラを持ち逃げされたり。アタックも同じように約束のお金がもらえんで1か月しか仕事してなかったのかな。10月には帰ろうと思っても帰るお金がないで、船で3日ぐらいかけて鹿児島までなんとか帰って、日本の島影が見えたときみんな泣いたとか。
這う這うの体で帰ってきて。
でも福岡まで帰るお金がないから、鹿児島か宮崎かで2か月ぐらい稼いで、それで帰ってきたんです。アタックがまた福岡に戻ってきて俺もまたメンバーに入って、そしたら久留米でまた仕事があったんでテンプターズの前座をしたり、石橋文化ホールの体育館で大きなコンサートがあったり。いろんなバンドが素敵な世界をいっぱい見せてくれて、本当にアタックのおかげで。でも次の年に、篠山(哲雄)さんがリーダーやめるんです。でも篠山さんが抜けたアタックに今度はベースとして臨時で入ったりして、いろいろ中洲を歩くスタイルが自分の身についとったけん。ものすごい有頂天ですよ。
ギャラもしっかりもらえたんですか?
もらおうと思ってね、入った瞬間からチーンって計算機が回ったんだけど、3日目ぐらいにアタックのみんなが共同生活しようって本当に一間に5人がいて、そのうち1人は彼女も一緒にいて、6人か7人ぐらいいて。これはお金をもらうとかそういう次元じゃないなと思って。最初はお金貯めてホンダのS600を買うぞとか思ってたけど。
ビートルズのハンブルグ時代みたいな話ですよね。
そうだよね。
すごいでも技量はどんどん鍛えられていくというか。
どんどん教えられるし、先輩ばっかりやけんね。だから僕はもう、今サンハウスが博多のロックの元祖って言うけど、俺たちには先輩がいっぱいおったから。
そのころは中洲が中心地ですか?
うん。中洲の中でもプレイメイトとか、もっと格が上のところに、スマッシャーズやバイキングとか。それからキングスというすごいグループもいた。福岡と沖縄を行ったり来たり。アタックのお土産はフェンダーのカタログやった。それがまたかっこよくてさ。最初テレキャスター、ストラトキャスター、ジャズマスター、ジャガー。どんどんクラスが上がっていく、そのあと12弦ギターがあって、アンプのページがあって、バイブロとか、フェンダーもこんなにいっぱいあるんだって、そんな土産もろたり。
よだれダラダラぶら下げてじゃないですか(サンハウス「ビールスカプセル」の歌詞)。
いろんなことを教わったり、求めよったけど、求める以上のものが、先輩から与えられていたね。
アタックはそれで解散なんですか?
アタックは次の年に解散したけど、俺はバンドの経験をしていたので、久留米でギターがうまい人ぐらい思われだしたんです。次の年の69年に、街を歩きよったら「探しよった、鮎川君」とか言うて、あんまり知らない人やったけど、自分たちは里帰りで帰って、いま箱バン(※4)をしよるけど、その箱を正月から2週間だけ代わりに演奏してくれないかって。「よかよ!」って言って、それなら篠山さんに声かけようってなって、俺を最初に誘ってくれたあのメンバーにベースとドラムをお願いして、1月15日ぐらいまで2週間、初めてトラ(※5)でやったら、ものすごいお金をもらったんです。店はドリンクで稼ぐから売上の80%やるって言われて嘘やろと思いましたよ。正月の1、2、3は800人とか1000人とかお客さん入って。入場料200円だけどものすごい売上で。20万円ぐらいですよ。
その当時で言ったらすごい金額ですよね。
うん、楽屋でみんなで山分けして、それが人生で初めてお金を稼いだ瞬間でした。もう夢みたいで。3日やったらやめられんじゃないけど、デヴィッド・ボウイの言葉を実感して。
それがずっと続いていくんですか?
それはそのときだけやったな。ダンスホールもその翌年にはどんどん減りだしたのかな。
ちょっと時代の変わり目ですかね、69年から70年とかっていうのは。
70年の1月やったんですね。それで、春か夏に「ウッドストック」の映画(※6)が来て、世界のロックはステップアップしとるんですよ。今度はダンスホールじゃない外国の何十万人が一度に聴く音楽を噂と映画で触れて、そしたら福岡でもすぐ真似ん坊が出てきて、警固公園や福岡城址でやってましたね。
ちょっとフェスのようなことが始まったんですね。
サンハウスの原型が作られたきっかけ
ちょうどその頃に大学のロックアウト(※7)が解除されて、俺らがダラダラしとった2、3年のツケが回ってきていっぱい授業受けて、農学部やったので実習旅行があって長野の小布施町でリンゴ農園をレポートしたり、新潟行って自立農家についてレポートしに2週間ぐらい行ってそこで解散になったから、その帰りに1回行ってみたかった東京に初めて行ったんです。4、5日やったと思うけど、いろんなとこ見て回って、ロック喫茶という新しいものが出てきよってものすごいレコードが出だして、ホワイト・ブルース、フリートウッド・マックやら、ポール・バターフィールド、キャンド・ヒート、ジョン・メイオール、ミック・テイラー、クラプトンが有名になって、ジェフ・ベッグも有名になって、ツェッペリンも69年になると出てきてる。いろんな音楽をすごいスピーカーで聴くようなロック喫茶でした。
福岡にはまだなかったんですか?
なかった。それでぱわぁはうす(※8)が1年後にできたんです。70年に東京へ行って、いろんなカルチャーショックを受けて、神田のほうへ行くとレコード屋さんがあるけど、地方では3000円もかかるのに半額で売られていて物的なものにもショックを受けました。そして最終日家に帰ったら俺のドアに貼り紙がしてあって、アタックのメンバーからバンドせんね?うちに電話くれんかいな?みたいなことが書いてあって。それで電話したらブルースバンドをやろうということになって、愛車のホンダのスポーツカブで久留米から板付まで行って。それでベースの人が「まこちゃんバンドせんね?」って、「俺もブルース大好きやけん、いいよ」って言って。オーティス・ラッシュ、アルバート・キング、やっとのことでマディ・ウォーターズやら、やっと本物のブルースが出たばっかりで、そういうのを俺は実践したかったんです。そしたらボーカルは「しばちんはどうやろう?」って言われて。
そこでまた柴山さんが出てくるわけですか。
うん。六本松の九大に行くとき柴山さん福岡大学やったから、バスの中でいつも後ろ方に乗っとるんよ、毛皮着てね。
目立ってたんですね、その頃から。
電話したら柴山さんが出てくれて、「いいよ」ってなって来たんです。ヤードバーズが「トレイン・ケプト・ア・ローリン」を「ストロール・オン」に変えて「欲望(Blowup」(※9)という映画に出てて、あれをちょっと前に見とったから、もうヤードバーズのこのサウンドが今一番究極やりたいことやけれど、そのためにはオーティス・ラッシュやらアルバート・キング、ジュニア・ウェルズ、バディ・ガイ、手に入る日本のレコードは少ない小遣いでコツコツ買いよったから、「そういうのをやりたい!」って言ったら、柴山さんもそういうのやりたいってなって、夏にバンドができそうやったけど、秋になって話がうまくいかんくなってね。そういうのもあって、俺は久留米と同じくらい福岡が自分の街みたいになったね。
九大もあるわけですしね。
九大もあるし、所属したところがあるから。ギターのアルバイトを篠山さんが紹介してくれて、何件かでギターを弾きよった。内山田洋とクールファイブの「長崎は今日も雨だった」とか、「小樽の女よ」とか、あんなんをサックスで吹くリーダーがいて、そのバックをしよったから、鶴岡雅義も弾かないかん。(笑)
鮎川さんがそれをやるのはちょっとレアかもしれない。(笑)
でもやっぱおもしろくないってなって結局篠山さんに代わってもらったんやけどね(笑)サックスのリーダーからオーディションなしで博多駅前のハニー・ビーというお店がバンドを探しよるから、給料も出るって話を聞いて、篠山さんが「まこちゃんどうするね?」って言うてきたけん、ほんなら柴山さん誘おうやって、1回やりかけたけど、良いと思うよって。柴山さんと3人で、サンハウスの最初の原型ができた。それで71年1月から、ハニー・ビーというところで始まったんです。
箱バンですか?
箱バンです。
しかし福岡でそれだけコアなメンバーが集まるのもまたおもしろいですね。実際サンハウスってデビューは75年ですよね?
デビューは75年やけど、今言うたように70年の夏にまず原型ができました。柴山さんと出会って、1回流れたけど、秋に篠山さんがお金稼げる仕事を見つけてきたことによって。ありがたいことで30万円やったんです。
その当時だったらすごい金額ですよね。
1バンドで30万円ね。5人で分けて6万円。俺は現金やら稼いだことないから、奨学金をもらいよった。月5000円が自分の自由になる金。あとは1月の臨時のアルバイトで5、6万円ぐらいかな。そうやってギャラがもらえて好きな音楽がやれて、夕方3時ぐらいにはみんな集まって2、3時間はいろんな練習して、楽器が置いてあるけんやり放題。良い音やし、今みたいにPAはないけど、ボーカルは自分のボーカルアンプを持っとる。生音の世界。バランスを取るということも自然に勉強になるし。音量的にも決まってくるし。そんな感じで、博多駅のハニービーでは2か月やったんかな、柴山さんがヤングキラーのマネージャーに交渉して、雇ってくれることになってそこでサンハウスという名前を正式に使いだしたんです。その頃は天神のコンボというジャズ喫茶で日曜日の昼、なかなかジャズファンが集まらんその時間に演奏する機会もありました。ダンスホールから初めて一歩出て、街の中で演奏するようになったのはコンボです。
中洲から天神に行くきっかけになったわけですね。
うん。スマッシャーズと対バンでやったりしてね。
ある程度ギャラも出るわけじゃないですか。その頃の時代だったらデビューしたいって気持ちはあるんですか?
いえいえ。デビューするやらもう笑われるというか。全然、俺らの目標はボブ・ディランやったり、ストーンズやったり、それからフレッド・マクダウェルというブルースマンを見つけてきたり、レコードの人たちはすごいんやけ、俺らがレコードやら作れるわけはないっていうのが、みんなの一致した思いやったね。ただ、その日暮らしの目先の音楽やることで頭いっぱいやし。デビューといえばチューリップが東京行く寸前にヤングキラーに見に来てくれたことがあったね。
なるほど。財津さんにインタビューしたときに仰ってたんですけど、フォーク界隈にはドラマーがいなかったようで。だから中洲まで行かないとメンバーに出会えないのでもしかしたら探しに来られてたのかもわからないですね。かたやデビューしていくチューリップを見ていて羨ましくは思わなかったですか?
すぐ売れたね。でもなんというか、ひがみもあるのかもしれんけど、まだデビューとかは全然思ってない。そういうのは全然夢がなかったんよ、俺らは
オリジナル曲はやっていたのですか?
オリジナルじゃなくてカバーをやってましたね。ツェッペリンが古いブルースを最高にモダンなハードロックに仕上げたような手法やローリング・ストーンズがそ古い音楽を削ぎ落してテンポアップして熱くなるようなロックを作ったような。そのまんまコピーするバンドもいたけど、俺たちは完全コピーではなく新たなステップとして自分たちのクリエイティブな部分を加えてました。それが一番おもしろいと思う。
サンハウスが福岡にこだわった理由
サンハウスのおもしろいところって福岡を離れてないじゃないですか。あの時代はみなさんだいたいそうなんですか?一方ではチューリップや甲斐バンドとかは上京していくわけですよね。あれはどういうことだったんですか?
みんなどげなふうに考えとったのか知らんけど、おそらく沖縄時代のタコ部屋みたいなのを経験しとったからかな。
もし東京に行ったとしても同じ経験をするのではないかと。
それやし、そういうのはかっこ悪いって思ってたんやと思う。あの頃はなんか、「なにが東京かて」って思いが人一倍強かった。
なるほど。かっこいいなと思ったし、サンハウスが福岡にいてくれたことによって、僕の中では後の「めんたいロック」に通じる、後輩たちに影響を与えてきたんじゃないかなと思ってるんです。
たぶんそれもあると思うし、俺らは音楽が好きやけ、いろんなアーティストにまつわる話とかをいっぱい知りたがるわけです。そういう話を聞く中でビートルズはリバプールからロンドンに行って、クイーンズイングリッシュみたいな差別に対して反骨心というか、そういうストーリーと一緒に音楽を聴きながら音楽活動してきたから地元で活動しているアーティストに憧れがあったのかもしれん。
アメリカもそうですもんね。
それで、ブッカー・T&ザ・MG’sはメンフィス、ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはニューヨーク、ドアーズはロサンゼルス、グレイトフル・デッドはサンフランシスコとか。そうやっていろんな街に音楽があるのに、日本だけ東京一極集中でかっこ悪いって思ったんです。東京からしか音楽が出せん。これはもう、俺たちは絶対博多でやらんと他のロックバンドの示しがつかんと思うとった。俺たちは放送局のディレクターの人から言いくるめられたりするようなバンドじゃないんよ。なんか、もっと不良なんよ。
わかります。そもそもがメジャー志向じゃないですもんね。
デビューやらがゴールではなかった。デビューの先にはもっとすごい世界やもっと才能がある人たちがレコード作っていると思っていたので、俺たちはまだ修行中の身ぐらいの気分でおりました。
福岡を拠点に他の地域でも活動していたんですか?
ベトナム戦争がありよる中、68年の1月には佐世保に米軍の原子力空母エンタープライズが来たりして、束の間の休息で来る兵士たちが佐世保にうじゃうじゃおって、バンドがたくさん必要だからっていうので71年に佐世保に行って、そんな中で「ウケる」ということを初めて考えだした。柴山さんが「ブルースしても誰も喜ばんで」って。「ちょっとポップな、最近流行ってるのをやらないかんねっ」てなって、たとえばウッドストックでサンタナがやった「ソウル・サクリファイス」とか、ジェイムス・ギャングの「ウォーク・アウェイ」とか、ザ・フーの「無法の世界(Won’t Get Fooled Again)」とか、チャートにも書かれるようなレパートリーを増やしたら、「わー」ってウケたりする。自分らとしても勉強になるんですね。ブルースばっかりから少しそういうふうに変わったのかな。まだオリジナルを作ろうとかはなくて、それで72年になるとダンスホールは全部なくなって、サパークラブとかローソクつけて、おしゃれなムードの店ばっかりになって、200円払って踊り放題で、生バンド聴き放題でっていうのがサーっと潮が引くようになって。
箱バンの出番がなくなったんですね。
学生主催の野外コンサートが流行
その代わりにヒッピーがいっぱい出てきて、九州大学の六本松の講堂があって、ストリートロックの発祥の地ですよ。九大学館ホールとか箱崎の記念講堂やらで、いろんな友達や知り合いが企画するようになって、あれは夏だったかな、シーナと出会う1週間ぐらい前、「九州大学で今日ロックコンサートが野外でありよるぜ」って、「えー、そんなのあると?」って、ダンスホールが終わって11時ぐらいに終わって、みんなで見に行ったら、本当に記念講堂の前の大きな広場でステージ組んで、71年の8月、九大のオールナイトロックってのがあったね。
サンハウスも出てるんですか?
イベント当日に主催者に交渉して、みんなへたくそやけん俺たちがやっちゃろうみたいな、ちょっと上から目線で決めた感じで(笑)川端にあったヤングキラーから楽器を取りに行って、夜中の2時か3時ぐらいに俺らが出たら、その瞬間が夢にまで見た世界というか、後でよう言いよったね、あれを体験したらダンスホールでやっておられんって。
お客さんがうわーってなった?
うん。あの独特の映画で見た光景が九大の箱崎の、箱崎祭という。
箱崎祭は伝統で続いていきますよね、それからもずっと。
そして71年10月にマッドコンサートって名前のコンサートが開催されたんです。京都からウエスト・ロード・ブルースバンドを呼んで、鹿児島からもバンドが来ました。九大があったおかげで学館でのコンサートが始まって、72年はずいぶん出ましたね。その中で、夢本舗というイベンターが立ち上がって、5月に「夢でよかった ええじゃないか-フォーク・ロックコンサート」という、九電体育館を使って、友部正人、泉谷しげる、高田渡、井上陽水も来て。それで知名度もちょっとはあがったんじゃないかな。
注目されたんですか?
うん。好かれたと思う。だから71年72年にはどんどん定着してきて、それで73年には高田渡やら泉谷みたいに日本語でやりよるアーティスト、はっぴいえんど、クリエイション、キャロル、サディスティック・ミカ・バンドとか「すでに東京のバンドはいろんな曲を日本語でやりよるけど、俺たちもせっかくブルースをやれるんやけ日本語でやってみるか」ちなって。
オリジナルでですか?
なにかそういうものを素材にしてオリジナルを作っても良いよねって話になって、柴山さんが「ちょっと詞書いたけ」って言って、「俺の体は~」って書いてあったんです。
出た!「キングスネーク・ブルース」。(※10)
なにこれって。でもブルースはみんなそういう感じですよね。ものすごくおもしろかったけど、ベースの人が自分はこういうものをやりたくてやってないって言って。やっぱりみんな価値観違うからね。ゼロから全部オリジナル作らないかんのは向いてないってやめて、そのあと奈良君が入ってくれてすごい頼りになったね。そして73年から日本語の曲を作りだしたんです。その前の年には海援隊とかとも出会っていて、お互い客少ないからフォークとロックで一緒になったら倍ぐらい入るやろみたいな安易な気持ちで明治生命ホールで初めてやりました。
フォークとロックって敵対はしてなかったんですか?
うん。敵対してなかった。でもなんか頭で決めとるんよ。フォークはだせえ。フォークやらできるかいって。
ちょっと反骨な。
しゃべりきらんだけなんだけど(笑)
確かにフォークの人たちはうまいですもんね、MCとか。
柴山さんはぶっきらぼうやし。「なんちゃらをお送りしました」ってそんぐらいしか言わんし、俺は一言もマイクでしゃべったこともないし。(笑)
でもそのスタイルが博多の伝統になったりもしてますからね。
純粋を守っていたデビュー当時
そんな感じで活動してきたら日本のロックもいっぱい出てきて、テイチクレコードが日本のロックに手を出すのが一番遅い会社でついに動き出すんですけど、トランザムやゴダイゴを作った東京のプロダクションのジョニー野村というプロデューサーがトランザムを売り込むのに夢本舗を使ってサンハウスも一緒に巻き込んで、ファーストステップコンサートというのを企画しましたね。そして74年に初めて郡山ワンステップフェスティバル(※11)を開催しました。
あれもまた伝説のフェスですよね。
あのときも今思えば、いろんな繋がりがあって俺らは出してもらえたのかなって思いますね。
プラスティック・オノ・バンドとかでも出てますよね。キャロル、ミカバンドとか結構あの時にすごいバンドたちが集まってるやつですよね。
そうやね。それに出してもらって、昼間の大した時間ではなかったけど、やっぱり選ばれたことってすごかったと思うし。
福岡でやってたバンドが。
それで74年の冬ぐらいにレコードを作るということになって、「俺たちは東京には行かんけんね」って、それだけははっきり言うとくからって。
レコーディングはどうしたんですか?
レコーディングは最高の機材があるのは東京やからもちろん行くけれども、夢本舗が一応俺らの所属プロダクションみたいな形になったのね。それで「キングスネーク・ブルース」をまず自主製作版で、「地獄へドライブ」とカップリングで出して、瞬く間に九州で1万枚売れてしまったという既成事実を作って、テイチクレコードに初回イニシャルを5万枚とか多く取るようにしてそれらを全部ジョニー野村が裏で仕掛けとったんです。なんもわからんやった、この頃まで。逆に言うと俺らは大好きな家族と家におって、大好きな九州を離れたくないとか言いよったけど、なんの計算もないし、なんの目標もないし、ダラダラおるのが好きやった。天神のヤマハ(日本楽器)に行って、日本楽器に行って、レコード見に行って。
そのあとはレコーディングなかったんですか?
次の年の75年に「有頂天」というアルバムを出してメジャーデビューをしました。
その頃ってちゃんと印税とか入ってたんですか?
いや、入ってこんやった。なんもわからない。ただ、レコードをリリースして、バンドも稼ぎよるんよ。いろんなライブ出たり。
1円も入ってこないんですか?
俺の記憶ではね。夢本舗が5万円か6万円か、月保証するっていう口約束で払いだしたんよ、でもそれも、何十倍も稼ぎよったのかもしれんし、そのお金というのはテイチクレコードが新人のプロモーションに充てるためのいろんなお金をジョニー野村がふんだくって夢本舗にやりよったのかもしれんし。
なかなかな時代ですからね、まだね。
誰も身近にマネージャーがおらんで、ライブの人たちに良い顔しながら、俺たちの喜びというのは良い演奏をしたり、また良い曲ができたとか、柴山さんが新しいグループを見つけてきて、みんなで聞いてこれ良いのとか、すごいやんとか、いろんな時代の音楽が多岐に渡りだして、ブルースバンドもあれば、AOR(※12)みたいな、レイドバック(※13)という言葉が流行ったり。
どんどん多様化していってますよね、その時代。
ものすごくいろんな音楽が広がっていったから。そんな中で俺たちは自分で言うのもあれやけど、すごい純粋を守ったという感じやったね。
(※1)「LIVE FOR TODAY!-SHEENA LAST RECORDING & UNISSUED TRACKS-」シーナの生前最後の録音が収録されたシーナ&ロケッツのアルバム。2020年、シーナの命日である2月14日にリリースされた。
(※2)バラやツバキなど四季折々の花が彩る広大な庭園を有し、久留米市美術館をはじめ、音楽ホールや図書館を備える複合文化施設。
(※3)1968年6月2日に、福岡市東区箱崎の九州大学箱崎地区内で建設中の九州大学大型計算機センターに、アメリカ空軍RF-4Cファントム偵察機が墜落した航空事故。
(※4)「ダンスホール(箱)の専属のバンド」という意味。箱バンがいる店では、1日数回のステージショーが行われる様なところもあった。
(※5)音楽業界の用語でエキストラの略。代役として呼ぶメンバー。
(※6)1970年公開のアメリカ映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』は、1969年8月15日から17日までの3日間、米国・ニューヨーク州ベセルで開かれた、ロックを中心とした大規模な野外コンサート「ウッドストック・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)」の模様を記録したドキュメンタリー映画。
(※7)1960年代後半の学生運動において、一部の学生達が大学を占拠し、机やイス等を用いたバリケードを築いて抵抗運動を展開したため、一般学生の安全等を考慮し、大学側が対抗処置として行ったもの。大学は授業を放棄、正門などの出入口を有刺鉄線などで封鎖(ロックアウト)した。
(※8)1971年に開店した博多区須崎にあった伝説のロック喫茶で、博多のロックの発祥地とも言われる店。空いた時間を練習に使えるように合鍵をバンドに渡したりと、サンハウスを始め後のめんたいロックと言われた数々のバンドの拠点となった。1978年に惜しまれつつも閉店。
(※9)1967年のイギリス・イタリア合作映画。監督は「情事」、「太陽はひとりぼっち」のミケランジェロ・アントニオーニ。
(※10)「地獄へドライブ」とのカップリングで1975年1月15日に発表された、作詞:柴山俊之 作曲:鮎川誠のサンハウスの曲。同年リリースのデビューアルバム「有頂天」にも収録された。
(※11)1974年8月に福島県郡山市開成山公園内の総合陸上競技場で開かれたロック・フェスティバル。30組以上の日本のアーティストに加え、アメリカからはヨーコ・オノ&プラスチック・オノ・スーパー・バンドやクリス・クリストファーソン&リタ・クーリッジなども参加し、日本のロックフェスの先駆けとなった。
(※12)アルバム・オリエンテッド・ロック(Album-Oriented Rock)、もしくはアダルト・オリエンテッド・ロック(Adult-Oriented Rock)の略語で、ポピュラー音楽のジャンルの一つ。一般的に「大人向けのロック」「アダルト志向のロック」を指す。
(※13)70年代のサザン・ロックで使われた言葉。リラックスした雰囲気を意味する。兄であるデュアン亡き後にオールマン・ブラザーズ・バンドを率いた、グレッグ・オールマンの初ソロアルバムのタイトルでもある。
(2022年6月23日 Sixpines Sandwichesにて)
企画/編集 松尾伸也
鮎川 誠(あゆかわ まこと)
シーナ&ロケッツ
1948年、福岡県久留米市生まれ。九州大学農学部卒。
「シーナ&ロケッツ」のリーダー、ボーカル・ギタリスト。
1970~1978年、福岡を代表するバンド「サンハウス」のリードギタリスト・コンポーザーとして活動後、1978年よりシーナ&ロケッツを結成。『涙のハイウェイ』でデビュー。『ユーメイ・ドリーム』が大ヒットとなる。エルビス・コステロやラモーンズともライブで共演し、1981年にはアルバム『SHEENA&THE ROKKETS』でアメリカデビューも果たす。
「ロックは生だ。音で勝負!」という鮎川の指針のもと、アリーナクラスから数々のフェス、ライブハウスに至るまで、妥協なきステージングで繰り広げられるライブアクトを中心に活動を続けている。
結成時のオリジナルメンバー奈良敏博(Bass)、川嶋一秀(Drums)を現在も擁し、質・量ともに群を抜いたその活動歴は、ジャンルを越え、日本を代表するロックバンドとしての可能性を独走状態で追求し続けている。
ロックが出来るところならどこにでも行く、どこでもやるというフットワークの軽さは、鮎川が74歳を迎えた今もまったく衰えることはない。
2014年7月に発表したシーナ&ロケッツの18枚目アルバム「ROKKET RIDE」はロング・セールスを記録中。
自身のソロ作としては『クールソロ』(Alfa)、『London Session』シリーズ(Speed Star)がある。
2016年シーナ&ロケッツのシーナとの出会いから、シーナ&ロケッツ結成秘話、これまでの生き方について語ったロングインタビュー番組CROSS FM「HAPPY HOUSE」が、日本放送文化大賞グランプリを受賞。その語りを「シーナの夢」 (西日本新聞社)として書籍化される。
2017年11月には47都道府県ツアーを全県踏破して40周年目に突入した。
2018年3月シーナ&ロケッツ40周年を記念して、鮎川誠選曲・監修の元、41曲が収録されたシーナ&ロケッツのベスト盤「ゴールデン・ベスト EARLY ROKKETS 40+1」「ゴールデン・ベスト VICTOR ROKKETS 40+1」がそれぞれ2枚組でビクターとソニーから発売。
またシーナ&ロケッツの半生を描くドラマをNHK福岡が制作。3月に九州・沖縄限定で放送され話題に。全国からの多くの反響により、早くも5月に全国放送が決定した。
音楽以外では、モデルとして多くのテレビCMや広告に出演するなど、その独特の存在感で多くの人を惹きつける。
俳優としてテレビドラマNHK『ちゅらさん』などに出演。映画では『ジャージの二人』(08年/中村義洋監督)をはじめ多くの出演作も。『ワルボロ』(07年/隅田靖監督)では映画音楽を手がけた。また、音楽・コンピュータへの博識を活かした『DOS/Vブルース』、『60’sロック自伝』『200CDロックンロール』の著書もある。
鮎川誠率いるシーナ&ロケッツは、1978年の初ステージ以来、今日まで一切のブランクがなく活動し続け、今年11月に45周年を迎える。
現在、鮎川誠&シーナの三女LUCY MIRRORをメインボーカルに迎え、シーナ&ロケッツ44周年×鮎川誠 74thを記念して5月のバースディライブから全国ツアー”HIGHWAY 47 REVISITED!ツアー“を北海道から沖縄まで横断して開催中。
TOUR INFO
5月2日(月)鮎川誠 74th バースディライブ 下北沢シャングリラ
5月6日(金)神戸 チキンジョージ
5月7日(土)岡山 デスペラード
5月8日(日)広島 CAVE-BE
5月13日(金)京都 磔磔
5月14日(土)名古屋 得三
7月16日(土)札幌・SOLID
7月17日(日)富良野・金魚
7月24日(日)代官山・晴れたら空に豆まいて / 鮎川誠 Play The SONHOUSE
7月25日(月)青山・月見ル君想フ / 鮎川誠 Play The SONHOUSE
7月30日(土)京都・磔磔 / 鮎川誠 Play The SONHOUSE
7月31日(日)岡山・デスぺラード / 鮎川誠 Play The SONHOUSE
8月12日(金)名古屋 TOKUZO / 3KINGS(鮎川誠、友部正人、三宅伸治)
8月14日(日)久留米サマービート66 石橋文化センター共同ホール
8月18日(木)神戸・チキンジョージ / 3KINGS(鮎川誠、友部正人、三宅伸治)
8月19日(金)京都・磔磔 / 3KINGS(鮎川誠、友部正人、三宅伸治)
9月4日(日)代官山 晴れたら空に豆まいて /3KINGS(鮎川誠、友部正人、三宅伸治)
9月17日(土)高知・X-pt
9月18日(日)高松・オリーブホール
9月24日(日)吉祥寺・スターパインズカフェ
10月1日(土)福岡・CB / シーナ&ロケッツ、 鮎川誠 Play The SONHOUSE
10月2日(日)別府・カッパーレイブンス / シーナ&ロケッツ、 鮎川誠 Play The SONHOUSE
11月5日(土)大阪・DROP
11月23日(祝)シーナ&ロケッツ 45th記念ライブ/ 新宿ロフト
11月27日(日)沖縄・北谷MODS
11月29日(火)宮古島 GOODLUCK!