【インタビュー】漫画家 長谷川法世 「日本のエンタメを築いた川上音二郎」(後編)
音楽都市福岡キュレーションメディア「OTOJIRO」は、博多が生んだ日本のエンターテインメントの始祖と言われている「川上音二郎」にちなんで名付けられました。
漫画家でありながら川上音二郎忌世話人会 代表世話人として長年、川上音二郎を追い続けている長谷川法世さんに、川上音二郎が歩んできた人生についてお話を伺いました。
パリ万博をきっかけに一躍有名となった「マダム貞奴」
川上音二郎と結婚した貞奴さんは日本人で最初の女優ということになりましたよね。これは音二郎さんのプロデュース感覚でされているんですよね。だってあの時代に女性が華になるように舞台に立つということは日本だったらたぶん考えられなかったと思います。
日本でそういうことはやってないですからね。
やはりヨーロッパに行ったことによってアイデアが生まれたんですかね。
シェイクスピア劇も昔は女形だったらしいですね。やっぱり女優は許さない。
ヨーロッパでさえそうだったんですね。
日本の演劇改良会の改良運動によって歌舞伎も女優を使ったりしたんですよ。市川久米八とか言って。でもあまり流行らないですよね。あとで川上一座も一緒にやったりしますけど。国際女優で名前が売れていたので、やっぱり国内に帰ってきても貞奴だけは別格で売れるので、本格的な女優第一号になったんだと思います。
逆輸入的に一躍大スターになったわけですね。だってピカソも彼女の絵を描いたそうですね。
まだピカソがパリに来る前の年らしいですよ。
まだ無名の頃だったんですね。ヨーロッパでは貞奴さんの影響でジャポネスクブームが起こったりしてますよね。ジャポネスクブームというかヨーロッパで日本ブームみたいなのが。もちろん万博の影響もあったとは思うんですけど。
日本ブームにおいては幕府も万博にいろんなもの出したりしていますからね。浮世絵なんかはその前から広まっていて、ゴッホは浮世絵をいっぱい集めていますもんね。
そうですよね。実際に自分の作品の中にそれがあったりしますよね。まさにマダム貞奴の誕生ですね。
集英社新書から出版された荒俣宏の著書で「万博とストリップ」というのがあって、パラっと見たら川上一座と貞奴って出るんですよ。万博はずっと流行っていたんですけど、みんなだんだん飽きてくるんですね。入りが悪いとどうしようかっていって、女性の踊り子、ダンサーを登場させるんです。それでベリーダンスなんかが普及したっていうんです。
要はパリであったらムーランルージュとかですね。
あれの走りですね。万博でそういうショーをやるんです。荒俣さんによるとベリーダンスをシカゴ万博かどこかでやったみたいですね。それで貞奴はストリップではなく、芸者と武士という芝居の死にざまが非常に受けてね、歌舞伎風の死にざまらしいけど、その身体表現がエキゾチシズムとあいまって受け入れられたんだと思います。
ロイ・フラーというアメリカ人のダンサーがオーナーでやっている劇場なんですが、小さな小屋なので1人でダンスします。それがどういうダンスかって言ったら、白い絹でしょうね、ジョーゼットのようなふわふわしたのを重ね着して、くるくる回って。パリ万博というのは電気の万博と言われていましてね、ロイ・フラーは電気を使うダンサーなんです。ライトを手前から当てるとふつうに白いドレスだけど、場内を暗くしてバックライトにすると体のシルエットが浮かぶ仕掛けで。
そういう意味でストリップも。ちょうど電気の時代ですよね、まさに。
モダンダンスの草分けと言われるんですが、荒俣宏さん的にはセクシーな踊りなんですよ。ロイ・フラーはデプッとした写真がありますがね、樋口一葉は小説で30歳ぐらいを年増って書いていますが、フラーは1900年当時38歳、音二郎も婆さんなんて言ってます。いまじゃそれこそ訴えられますねえ。
話がそれました。フラーが絹の衣裳をくるくる翻すところに、カラーライトがあちらこちらからあたる。すると「オー、ブラボー」なんてジェントルマンが喜んだんでしょうね。欧米は夫婦同伴ですから、男性だけがフラーを見たとしても入場料は倍入ります。
それはそれで人気がまたそこで出たりとかして。
ひとつ人気が出ると全体の人気も上がるようですね。川上一座はそのロイ・フラー劇場に、マチネで昼だけ借りてちょこっとやったら、これが人気になるんです。それでロイ・フラーは興業師に回っちゃって。ヨーロッパ中の興行も自分がプロデュースするとかいって。途中で、音二郎の本に書いてあるんですけど、1日5回興行するまでになった。
5回って結構ですよね。1つの作品が短かったんですかね。
短くはしてると思いますが、それにしても多いでしょ。ダンスじゃないんですから。歌舞伎だとだいたい1日中ですからね。朝から夜まで。音二郎たちの芝居のときは3時間とか。だから今の歌舞伎と同じですよ。
同じくらいですね。それも音二郎さんが発案なんでしょうか?
演劇改良会が公演時間を短くしろとか言ってます。ほかに演劇公演中の飲食禁止とかね。芝居小屋には売子がいて食べ物や酒なんかを売って稼ぐんですが、飲食禁止は彼らにとっては死活問題なんです。音二郎は飲食禁止のために日当を払って売子に休業してもらうんですが、暴行を受けたという話もあります。明治の後期なんですが、いまの劇場形態はこの時代からはじまるんですね。そこに音二郎がいるわけです。
海外公演でのエピソード
海外の公演でいうと最初はアメリカに行かれてますよね。そのときに人気を博して、すごく盛り上がったとは聞いています。ただ、すごい事件が起こってますよね。売上を興行主が持ち逃げしたっていう。
売上の2000ドルですね。持ち逃げしたのは興行主の代理の日本人弁護士なんです。白人女性の美人局(つつもたせ)に引っかかってお金が必要だったらしいです。
ひどい話ですよね。だってそれで結構皆さん苦労されたんでしょ。
小道具とかみんなホテルの部屋に入れていたけど、鍵かけられちゃって、宿泊料を払うまで開けないと言われて、芝居ができないですよね。それさえあればね、芝居はできたのにね。
ある意味身ぐるみ剥がされた状態というか。
公園で野宿みたいのしてたみたいですよ。
それで普通だったら帰ってきそうなもんですけど、そのあとも引き続き大陸を横断していったんですよね。
アメリカに着いたときに、アメリカの新聞のインタビューに答えて「我々は日本代表の演劇団としてパリ万博に出場するために行くんだ」って言ってるんです。そういう記事があるんですね。それは確かイギリス人女性作家レズリー・ダウナーが書いた「マダム貞奴―世界に舞った芸者」かな。これは貞奴について一番まとまった新しい本ですね。
これまでの本には、バッキンガム宮殿で皇太子の園遊会で芝居をして2,000ポンドもらったとか書いてあったりして。でもレズリー・ダウナーは全部違うって言っているんです。イギリスの王室に直接問い合わせて、お金を払うことはないって確認したそうです。あそこで芝居するということは名誉ですからね。
それから、バッキンガム宮殿で皇太子が園遊会をやることはない。あれは女王のものだから皇太子はそんなことしないんです。やるとしたらほかの館ですよね。だからそれで何か記念品をくれるとしたら、王室の紋章がついた、皇太子だったら皇太子の紋章をつけたハンカチとかそんなもんだ、という回答でしたと書いてある。
誰それの邸宅で開催されたパーティーに皇太子が参加し、その会場で川上一座が芝居したんだと思います。日本ではいろいろ聞かれると、「それはものすごいご褒美もらったろうね」とかいうことばっかり聞くわけですよね。
確かにそれだけの偉業を成し遂げたらすごい褒美をもらってそうですもんね。
そんなに人気が取れたんだったら日本の感覚から言うと金一封が出て当然みたいな。周りから1,000ポンドとか2,000ポンドとかもらったんじゃないかとか聞かれて、しょうがなく「うううん」とか言って(笑)
(笑)何が真実か。
絵入り新聞みたいのがありますよね。明治の風刺漫画に洋行帰りの音二郎夫妻という説明のイラストがあるんです。旅行カバンに法螺貝をいっぱい詰め込んで、いくつかこぼれ落ちている絵がね。
それ風刺的に描かれてあるんですかね?
うん。またホラばっかりって。
なるほど(笑)
でも同じ時期の福沢諭吉は、鷺に描かれているんですよ。二の足を踏むフクサギって説明してある。民権を擁護するするような、先導するような立ち位置だったのに、政府が民権運動弾圧に出ると黙ってしまって。それで風刺されたんです。も一つあって、諭吉さんの顔がヤツガシラに描かれているのがありましてね、八方美人ということで。天下の福沢先生とほら吹き音二郎が風刺画で競演、おもしろいでしょ。
逆境下においても自分がやりたいこと、新しいことにチャレンジし続ける
そんな福沢諭吉とも実はご縁があるんですもんね、増上寺で。
音二郎は増上寺で小僧をやってましたね。
13歳で家出して増上寺に転がりこんでますよね。
空腹でお供え物を盗んだのを和尚さんに見つかってお寺の小僧をやりました。そこへ福沢先生が毎日散歩に来るのに出会って、勉強がしたいんですと頼み込むんです。それで慶應義塾の学僕にしてもらった。学僕というのは住み込みのお手伝いさんですね。掃除やらの仕事をやって、時間が空けば授業を受けられるというね。そのころの義塾は全寮制で門限があるんですけど、門限破りの学生から小遣いをもらって便宜をはかったってんでクビになりましたね。
かわいがられる性格というか、歴史的な偉人たちからもすごく愛されるというか、取り入り方が上手なのかわからないですけど、すごいところとつながっていきますよね。
はい、板垣退助を芝居にします。一座を旗揚げして最初の芝居が「板垣君遭難実記」。長セリフをプロンプターなしでやるんで新聞記者が驚くんです。音二郎をはじめ役者はほとんど政治演説家だったんですから喋りは立て板に水です。黒子がうしろで本を読む旧劇とは大違いなんですね。それに新劇はおしろいも塗らないノーメークで、立ち回りは本気で投げ飛ばしたりする。
いわゆる壮士芝居ですね。かなり激しかったという話もありますよね。
「諸君、楽屋に医者と看護婦を用意しているから充分にやってくれ」と張り紙してたみたいですよ。
めちゃくちゃですね。それは盛り上がるわけですよね。
江戸時代は立ち回りのリアルなのはだめなんです。感情を爆発させるようなものはダメなんです、それで立ち回りも踊りのようになるんですね。
型っていうかそんな感じですもんね。
立ち回りだけじゃなく、芝居全体のリアリティーを幕府は禁止するんです。忠臣蔵でも大石内蔵助が大星由良助になっているのはそのためなんですね。それを明治政府や演劇改良会はリアルにやれって言うんです。それで板垣君なんですが、政府批判なんかのセリフは禁止で、政治事件物はやれなくなります。
やっぱりやったらダメだと。
歌舞伎でも「女殺し油地獄」とか心中ものとかは実際の事件をもとにしたって言いますが、心中ものだと芝居を観た客が心中したりするので、これも奉行所に禁止されますね。
芝居の影響力ってすごいですね。
明治には警察が許可を出さない。台本を何回書き直しても却下されるので、結局は佐賀の乱とか江藤新平の乱とかの芝居をするんですよ。これ新政府に武力をもって立ち上がった国内初の内乱ですよ。それを芝居にするんだけど、母親との別れとかね。前日に決起のことは言わずに母親の気配を読み取って、家の外からお別れを告げる。
これ忠臣蔵の徳利の別れってあるじゃないですか。赤垣源蔵、徳利の別れ。兄貴がいなかったので、兄貴の羽織を衣紋掛けにかけて、その前に徳利を置いて1人だけ酒飲んで帰っていたという。女房がそれに何のことか気づかなかったというね。それしかやりようがないんです。許可が降りなければどうしようもないのでね。
ちょっと話が戻りますけど最初は仁和加をやったほうがね、落語をやっていると自分だけしかできないので、仁和加をやれば仁和加一座で何人も抱えられる。それで、1人でやって1人で捕まると罰金が大変なんですよね。
お金を取られるんですね。
仁和加一座だと、座長はあんまり言わないで、座員の誰かが過激なことを言ってみるとかね、仁和加というのは即興劇ですから、台本書いててもどんどん変えられるんです。
アドリブがどんどん入ってくるんですね。
そう。それでしょっぴかれて、警官が2人ぐらいで臨検、そこで公演当日の台本を見て、台本と違うじゃないかと言うんです。そもそも仁和加自体を許可してるんだから、「仁和加とは即興劇だろ」とか言い始める。この掛け合いが観客にまた受けるんです。観客は金払ってるから「金返せ」とか言ってるんですね。だから庶民の味方が多いんですけど、選挙に出たら庶民は税金そんなに払ってないですから、選挙権がないので集まらない。
よっぽどそういう演劇で表現したほうが伝わったりもしただろうし、そういうことですね。
そうですね。それは国会が開設になって板垣退助が言うんですよ、「これからは歌とか演劇とかで自分たちの考えを広めるのが良いと思う」と。そのころの人たちは今もそうですけど、打ち上げで宴会するのが好きなんですね。政治演説会をやっても板垣退助は芸者はべらせてみんなでワーワーいって騒ぐ。そのときに民権歌とかいうのを作って数え歌風にやる。それを芸者が覚えて、他の客の前でもやったら広まっていくんですね。そういうのを板垣退助は知ってるんです。
賢いですよね。
もう政治演説会を普通にはできなくなったのでそれ以外のものってことで音二郎が芝居をやり始めるんです。だからその内容は改良落語、改良仁和加をやるんですがやっぱり潰される。寄席の館主も罰金をくらうのでやめてくれって言われるんですね。仁和加一座からもやっぱりやめてくれって。それで満を持して書生芝居というのを考えて、芝居でOKをとって台本通りにやろうと言ってやり始めるんですね。
そこは音二郎さんもちょっと妥協するというか。
壮士と言えど活動と食欲の両立がむずかしい。
なるほど。でもずっとそこでもせめぎ合いというか、戦い続けてる印象はずっとありますね。絶対自分の本質的にやりたいことは曲げずにどんどん新しいことにもチャレンジしているような、そんなイメージはすごく強いですね。時代性とかもあるのかもしれませんけど、音二郎さんの骨っぽいところも博多っ子の気質が何か影響してるんですかね。
さっきから言うように半分スパイだと思います。金子堅太郎が何と言おうと、伊藤博文が何と言おうと、自分は自分たちが培ってきた理論でやっていくんだと。
芸人だからといって全然へりくだってない感じや誇りみたいなものを感じますよね、音二郎自身がやってきたことっていう。
選挙にも実際立候補するわけですからね。演説会では庶民が喝采するんですけど、金持ちが票を入れないと変わらない時代ですから。それを黒岩涙香は身分もわきまえず音二郎の分際でというような感じで叩くんです。明治という時代ですから、しょうがないっちゃしょうがない。でも民権運動というのは万事公論で決すべしの五箇条の御誓文がよりどころになっていますからね。民権派って反体制運動みたいですけど、これは勤皇なんですよ。
幕末からの精神がちゃんと残っているんですね。
だから板垣退助も民権運動のトップに立つけど勤皇なんです。武力闘争はやめるんです。天皇に対して鉄砲や刀を向けることになるので。西郷軍からも、一緒に決起しようとかなんかいう連絡もあったみたいだけど、それは無視する。
そういえば伊藤博文がトップのとき、板垣退助はヨーロッパに初めて行くんです。「これから世界を相手にしないといけない時代に国内のことだけでいろいろ言ってもダメだから、1回見てこいよ」って言われて、最初は金が無いもんだから拒むんですど、三井かどっかから金が出てるんですよ。それで6か月ぐらい豪遊して回るんです。
この話って音二郎が初めてパリに行って、軍艦で帰ってきたのと似ていませんか?だからそのくらいの扱いを受けたということなんです。そのくらい人気があって影響力が強いというのを認めてるんですよね。それはただの100%「はいわかりました」って言ってやった人間だからじゃないと思うんです。国民、庶民の世論をこっちにつかせるから。
支持というか人気があって。
9割政府寄りの言葉を言ったってダメだろうみたいな考え方じゃないですかね。一つおもしろい話があって、明治天皇の皇后陛下の前で芝居をやるという話があったんですね。でも中止になるんです。
実際はやれなかったんですね。
うん。レズリー・ダウナーの本によればやってない。皇后の前で台覧に浴すという言い方があるんです。天皇陛下がご覧になると天覧でしょ。天覧相撲とか天覧野球とか。皇太子、皇后というのがご覧になるときは台覧なんですね。それは身分制のものですから、身分によって言葉が違うんです。
その直前に打った芝居が熊本の不平士族の神風連の乱だったのかな。県令や県庁役人が殺されたんです。すぐには死んでないんだけど、その妾が東京に電報を打つんです。「ダンナハイケナイ ワタシハテキズ」って。
どういう意味ですか?
「旦那はもう死ぬだろうと。私は手傷を負ったけどまあ大丈夫。」この電報をタイトルにしたんですよ。その直後に皇后陛下に芝居を見せるというのがいけなかったんだと思う。
なるほど。それはちょっと不適切みたいな話になりそうですね。
皇后の前じゃちょっとね。側室の前だったらまだ良いかもしれませんけど。
原点は博多。真似するか反発するか混ぜるか。
まだまだ音二郎さんの知られざるところがありそうですよね。
悪戦苦闘してね。革新劇団というのをやるんですよ。革新第一軍とか第二軍とかね、第三軍までやったのかな。何が革新かといったら、東京で芝居を打って役者も全部同じ人でそのまま舞台を持って行くんだと。三軍なので三劇団分作るんです。
第一軍は歌舞伎俳優の二世市川左団次ですね。彼は革新的な芝居をやったりするので、芝居小屋から干されていました。そこへ音二郎が声を掛けるんです。革新劇団では音二郎はプロデューサーに回るんですよ。どうも時期的に見るとね、体がしんどかったみたいですね。
もう晩年のころですか。
うん。それでもう興行師に成り下がったとかいうように言われ方するんです。山師とかね。
ひどいですね。やっぱり人気があるから妬みが出るんですかね。
欧米でもプロデューサーというのは、結構山師的なところがありますよね。
確かにそういうところありますよね。
良いプロデューサーもいたりして、役者を育ててくれたり守ったりとか。芝居の台本書いてもらうのに、銭形平治より前に岡っ引きの話で「半七捕り物帳」を書いた岡本綺堂がいて、「維新前後」という芝居台本をはじめて書きました。書かせたのは音二郎なんです。そのあと200本ぐらい書くんですけど、その大半が左団次のために書くんですね。
「修善寺物語」というのが大ヒットするんですけど、「維新前後」を書いたときのことを、「ランプの下にて」という本で綺堂が綴っていて、音二郎がやってきて、「先生、芝居の台本書いてくれ」って。「自分はそんな新派のような劇は書けないよ」って言ったら、「いや、歌舞伎の台本でお願いしたい」って、「誰がやるんだ」とか言って、いろいろあって、左団次がやるんだって。
綺堂さんは本当は川上は嫌いだから断ってたんだけど、自分のほうが若いんですね。とうとう押し切られてしまって承諾した。次の日から電話とかで「先生どうですか?どこまで進んでますか?」と来るので、その態度に怒って、「そんなこと言ったらもう書かない。そんなすぐに書けるか」と。そしたらすぐ飛んできて「先生困ります困ります、よろしくお願いします、書いてください」って言って、いつも汗を拭き拭きやって来る。それがいかにも川上らしいっていう、スタンドプレーみたいな、と綺堂さんは書いているんですよ。
でも、なんで興行師やってるかって言ったら、体の調子悪いからなんですね。それまでもね、ずっと出てくるんですよ、休演したりとか、芝居やってるところで昏倒したりとか。
ギリギリまで舞台に立たれてたっていう話も。
うん。どったんばったんやったりね、暴行も受けたりしているので、どこか悪かったんだと思いますよ。新聞記事によると首を回す癖とかね、キック症って言われていますよね。そういう雰囲気の書き方がされていました。何かの後遺症かもしれません。
ほかにもいろいろ武勇伝はありそうですね。
芝居を始めたわりと早いうちからあると思いますよ。昏倒したのをどこかの女将に助けられて、家で看病してもらってたら、やっぱり妾ができてるって言われたりして。そうじゃなくて動けないからそこで看病してもらっていたのにと思いますけど。何が本当かわかんないですけどね。新聞もいい加減に書くし、芸能関係の新聞は今でも書き立てるしね。
確かにね、全体の一部分を切り取ったりしますよね。
昔なんかもっと書き立てるし。文章を書ける人間が偉いという時代ですから。
しかしそれにしても法世さんって本当に生き字引ですね。音二郎さんに関して友達だったかのようなぐらい詳しいですよね。
高校のときの歴史の先生で、昔の人間たちを「なんとかさん」って呼ぶ人がいるんですね。「義経さん」がとか「頼朝さんが」とか。その人のことを知れば知るほどだんだん近づいていきますよね。普通に呼び捨てるのなんか悪い、もっと親近感が湧いて一応さん付けで呼んでみようかなと。
だからもう「音さん」な感じでしょう、まさに。僕が法世さんに対して、「法世さん法世さん」って勝手に知る前から言っていたのとある意味同じかもしれないですけど。
学校演劇とかいうジャンルがありますけど、「学校演劇」という本を買ってみてください。最初に音二郎・貞奴の写真が出ますから。演じたのが音二郎・貞奴。台本はドイツ帰りの巌谷小波。少年少女文学。演出が、これは今では公的には学校文学、演劇とか児童演劇の祖みたいに言われる久留島武彦です。
我々福岡のルーツだけじゃなくて、日本の演劇界のルーツでもあるんですね。
歌舞伎を短くしたりとか、切符制度にしたりとかいろいろ、そのために自分の劇場をつくりました。2つつくって2つとも潰れましたけど。
いろんな革新をやってますよね。
歌舞伎って今で言うと伝統芸能の類でしょ。伝統になったのは音二郎が新演劇を始めたからなんです。一番決着がついたのは日清戦争劇です。日清戦争劇を音二郎が従軍記者みたいな格好して取材に行くんです。結局はフランスの演劇をパクって日清戦争の様子を演劇にするんです。それがめちゃくちゃ受けるんです。東京中の芝居小屋がみんな日清戦争劇になったと言われるほど。まず新派の新劇の連中が全部やるんですよ。歌舞伎も全然客が入らないので、歌舞伎も日清戦争劇をやるんですよ。
影響を受けてますよね、明らかに。
九世市川團十郎さんが李鴻章なんかをやったのかな。でもね、あの人はわりと演劇改良会の薦めに従って、リアルなしゃべり方とか服装でやるんだけど、それでもドンパチ入れたり、大砲、舞台の上で撃ったり、口語で喋ったり。みんな日清戦争に行った兵士たちが帰ってきたりしていて、新聞とかでありさまはみんな知ってるわけです。
歌舞伎の台本を院本と言ったりしますけどその台本でやったんじゃあもう、歌舞伎のような古い所作でやったら全然合わないですよね。それで伝統芸能になるんです。歌舞伎は、異様な身なりをするというかぶくという言葉から来ているそうですが、時代を切り開くという意味合いもあるのかなと思います。それが時代に追い越されてしまい、古典伝統芸能に変わったんだといえますね。
歌舞伎らしさを現代劇に仕立てて全盛を迎えたのが劇団新派をはじめとする新演劇でした。でも、五世菊五郎さんは気球を飛ばしたりしましたけどね。
劇場でですか?
宙乗りで気球に乗ります。チョッキ着てズボン履いて散切物をやってるんです。それもヒットするんですけど、いざリアルな日本の動きを芝居にするっていうのはやっぱり歌舞伎では難しいですよね。気球が出てくる80日間世界一周を音二郎はやったりします。
さすがですね。
月世界探検やSFもやっていますよ。向こうでウケたのはすぐやるんです。
何ていうか自由で先取性もありますよね。音二郎さんの精神というのが未だに脈々と残ってませんか?タモリさんとか見てても思うんですよ。なんか全然枠に収まってない、ただの芸人さんじゃない考え方というんですかね。
博多というのはトラディショナルではない。それを真似するか反発するか混ぜるか。町人はお侍とどうしても日常的に渡り合わなきゃいけないので、そんなに反体制的なことを言えないんですよね。だから町人自体が半分は反発して、半分は妥協してというところがあると思います。それでいうと音二郎が半分スパイで半分どうのこうのって言うけれど、それは当然の成り行きだっていう風に思ったりします。そういう人生なんだと、アイデンティティがね。
もともとがね。
アイデンティティで思い出したけど、昨日、映画「ボーンアイデンティティ」を見直して。息子が東京から帰ってきて、ネットフリックスを私のプロジェクターにつないでくれたんです。ただ、ネットフリックスの見過ぎで目が悪くなりましてね、真っ暗なのはよくないですね。パソコンも目が疲れると思ったけど、あんなにプロジェクターが疲れると思わなかった。脱線すいません。
いやいや全然大丈夫ですよ(笑)
私は出たとこ勝負みたいな感じで同じことはやらない。トラディショナルではなく、商人というカタギ。今ウケたら次にウケることも考える。同じものでは飽きられるというような考え方、思考回路があるんじゃないかな。私も漫画家やっていますけど、漫画家って同じ漫画を書かないんですよね。全部違うこと書かなきゃいけない。似たようなことエピソードになってしまったら、もうすぐ「マンネリになったな、あいつも」「あいつはダメだな」「枯れたね」とかね。
常に新しいチャレンジをしていかなきゃいけないっていうことですね。
本当ですよ。
法世さんもそういう精神がちゃんとあるわけですね。
たとえば講演のレジュメ書いてもね、本番の講演のときはその通りに言いませんもんね。レジュメを書いた時点で同じことを言っちゃいけないって脳になっているのかも。
でもきっと音二郎さんも芝居上そういうことをきっと展開していたんでしょうね。
うん。常に時代は変わるから。
演目は同じでも細かい内容が違ったりとかですね。
もうウケなくなったらすぐそこを変えたりとか、それから時代が変わってくると、またそれを変える。そこにまた警察の検閲がかかりますから変えざるを得ないこともある。いろいろ条件はありますよね。新しいもの好きというか商売というのは、新しい売れ筋のものがあったらそっちにも手を出すし、基本ですからね。
音二郎さんの絶妙な距離感というんですかね、東京や海外も含めてスターになっていきながらも、原点は福岡みたいなことも一方では大事にしているというのは、その精神がたぶん音二郎さんをずっと支えていたのかなと思います。
それはやっぱり原点は博多ですよね。
福岡の特徴みたいなものが象徴的に音二郎さんに何か現れてるんじゃないかなと思いました。本当に語り尽くせないですね。もっとお話をお伺いしたかったですし、本当は法世さんのお話も博多っ子純情に限らずいろいろと、お伺いしたいぐらいです。今日は本当にありがとうございました。
ありがとうございました。
長谷川法世 (はせがわ・ほうせい)
漫画家。1945年、博多生まれ。福岡県立福岡高等学校を卒業後、1968年『正午の教会へ』(COM)が月例新人賞受賞。その後、1972年の『痴連』で本格的デビュー。代表作『博多っ子純情』(双葉社)、『がんがらがん』で第26回小学館漫画賞を受賞、同年『博多町人文化勲章』を受章。その他作品に、『ぼくの西鉄ライオンズ』『博多新聞東京支社』『源氏物語(上・中・下)』『徒然草』NHK朝の連続テレビ小説の原案小説『走らんか!』などがある。2004年より九州造形短期大学客員教授をつとめた。現在「博多町家ふるさと館」館長。